城山三郎『官僚たちの夏』

 1960年代、通産省のキャリア官僚たちがどのように仕事をしていたかを描いた小説。
 登場人物の多くにはモデルがおり、登場する政治家については、それが誰かは素人でも推察できる。

 主人公の風越信吾は、戦後経済からの脱却期を迎えた日本の産業政策について、信念を持って立案・立法に奔走するキャリア官僚である。
 保護・育成から自由貿易へと、基本ポリシーが転換しつつあったこの時代、どのような長期戦略を描くかが、最大の問題だった。

 通産省の周辺には、直接の利害関係者である産業界トップや、産業界の意向に沿うべく口利きをする政治家たちがうごめく。

 利と害とが交錯し、力関係の綱引きが行われる中で政策は形をなしていくが、個別の利害を超えた国家的戦略を構想することができるのは、主人公は、キャリア官僚以外にはないと考えている。
 それは、この時代のキャリアたちに共通の思いだったのかも知れない。

 主人公にとって、政治家も財界トップも、大蔵省主計局も眼中になく、彼の視線は、日本の産業の自立をいかに図っていくかにのみ、注がれている。

 官僚的発想という言い方は、冷酷無比な原則論や、末端の現実や実現可能性を無視した机上の空論というニュアンスを含意するが、まずは一本、筋の通った理念が立っていることが前提でなければならない。
 主人公は、その点に関する限り、自覚と自信に満ちあふれる人物である。

 キャリア官僚とはたぶん、このような人間であるべきなのだろう。
 弱者に対する配慮とか、「例外的」と思われる人に対する配慮は、国家の長期戦略を考える上で捨象してかかるべきだというのが、日本という国のやり方だからである。

 そして今、日本の官僚機構はどうなっているのだろう。
 どんなに頭が悪くとも、権限の上では、官僚より政治家の方が上だ。
 政治家は「政治主導」というが、その内実はどんなものなのだろうか。

 政治家より官僚の実力が上位にあるのは現実かも知れないが、それが正しい姿であるとは限らない。
 政治家と官僚との「正しい」戦いが行われているのが、望ましい。

(ISBN4-10-113311-5 C0193 P438E 1980,11 新潮文庫 2009,5,21 読了)