湯浅誠『反貧困』

 日本人の自己認識が、総中流といわれる状況になったのは、1980年代だった。
 頑張れば、あるいは努力すれば、貧困とは無縁の暮らしができると思われたからだろう。

 貧困が意識されていたのは1960年代までだったのかも知れない。
 高田渡や加川良らは、実にねっちりと貧困を歌っていた。
 意識のある若者たちの間では、プロテストソングがもてはやされる一方で、彼らの歌はサブカルチャー的な位置にあったと思う。

 しかし、今聴いてみると、プロテスト系の歌からは不自然な気負いが感じられる一方、貧困歌の説得力はちっとも色あせてない。
 それは、貧困という現実が以前にまして鮮明になってきたからだ。

 本書の現代貧困論のポイントの一つは、まっとうな暮らしを可能にするセーフティネットの最後の柱である自分へのリスペクトが崩壊していると説いている点である。筆者はこれを「自分自身からの排除」と呼ぶ」

 貧困は自己責任であるという思考にとらわれている限り、人は、絶望して生きるのをやめるか、社会に復讐することにのみ、自分の存在意義を見いだすという、無惨な結論に行き着かざるを得ない。

 本書が、貧困が自己責任ではないことを切々と説いているのは、その考えは、人間の自己否定=「死に至る病」だからだ。

 もう一つは、そのような状況に陥らないために、「溜め」という概念で表現される、個人的なセーフティネットが必要だと述べている点である。

 お金は経済的な「溜め」であり、貯蓄があれば再就職に立ち向かう余裕がもてるが、それは当然だ。
 筆者が力説しているのは、人間関係的な「溜め」である。

 職場には仕事があり、上司と同僚がいる。
 上司や同僚とは仕事を介して人間関係ができているのだが、職場にしか人間関係が存在しなかったり、職場の人間関係が乾燥したものだったりすると、「溜め」は小さなものになる。

 グローバリズムは「溜め」を「ロス」と読み替えて、「溜め」のない社会をめざそうとしてるかのようだ。
 「反貧困」は、その逆をめざすのだから、多層的でゆとりのある人間どうしの関係構築が必要だと、本書は述べているのだろう。

(ISBN978-4-00-431124-9 C0236 \740E 2008,4 岩波新書 2008,8,26 読了)