長田衛『評伝マルコムX』

 アメリカが版図の肥大化を進めていく過程で、殺戮・追放されたのはアメリカ先住民だった。
 一方、産業化の過程で労働力の役割を果たしたのは、奴隷として強制連行されたアフリカ人だった。


 アフリカ人たちは、白人奴隷主のもとでもの言う道具として死ぬまで使役された。
 1862年に奴隷制度は廃止されたが、その後もアフリカ系アメリカ人は多くの場合基本的人権を認められないまま、最底辺の労働力として、アメリカを支える役割を果たさせられた。

 アフリカ系アメリカ人の不満は、白人系アメリカ人の公的・私的暴力によって圧殺された。
 つい先日も、武器を持たないアフリカ系青年が警官によって50発の弾丸を撃ち込まれて殺害された事件で、警官に無罪判決が出た。(この記事など)
 権力による虐殺に対し、司法がお墨付きを与えた形になる。
 これが、アメリカという国なのだ。

 このように屈辱的な状態からアフリカ系住民が脱出するための運動の一つは、アフリカ系アメリカ人に白人と同様の法律的地位を求める公民権運動だった。
 本書にしばしば登場するM・L・キングは、この流れに属する代表的な指導者である。

 彼らの闘い方の基調は非暴力にある。
 彼らは、アフリカ系アメリカ人がアメリカ国民として白人同様の待遇を受けるようにするために、理性の力に依拠しようとした。

 これに対し、白人のテロから自らを守り、反撃する権利を積極的に主張したのが、マルコムXだった。
 アフリカ系アメリカ人が白人系アメリカ人と同じ法的地位を得ることに、どれだけの意味があるのか。
 もちろん、大いに意味があるに違いない。しかし、それが実現するかどうかはともかく、アフリカ系アメリカ人が白人化したところで、世界の弱小国を食いものにしつつある帝国アメリカの本質には何の変化もない。

 マルコムXは、アフリカ系アメリカ人はによる、アフリカ諸国民との連帯をも構想していた。
 暗殺がなかったとしたら、彼の思想はどこにたどり着いていただろうか。

 アメリカは、語るべき歴史を持たぬ哀れな国である。
 白人系アメリカ人にとって、歴史を直視することは、自己を解体することに他ならない。
 しかしそこから出発しない限り、暴力によって世界支配を維持するしかなく、自国への反感を醸成し続けなければならない。

(1993,3 第三書館 2008,4,30 読了)