礫川全次『アウトローの近代史』

 著者は、公権力の法的支配の範囲外に位置する組織(勢力)をアウトローと呼ぶ。
 そうした存在が歴史的系譜を持つものとは思えないが、著者は、汎歴史的に存在したアウトローが歴史的に一定の役割を果たしてきたと評価し、近代史上におけるアウトローをあとづけている。


 本書を読んだ動機は、「秩父事件は、博徒=アウトローが『武力』によって公権力と対決したという、日本アウトロー史上でもきわめて稀なケース」という評価がいかなる根拠から出されているのかという点に関心を持ったからである。

 ここで分析されているのは、菊池貫平・井出為吉以外の秩父事件指導者が博徒だったかどうかが中心であり、本書は、秩父事件のリーダーたちの本質を博徒と見る立場である。

 秩父事件の指導者の中に困民党総理田代栄助を始め、博徒と呼ばれる人々が存在したのは周知の事実である。
 しかし、彼ら事件指導者たちが本質的に博徒だったと規定するには、さらなる検証が必要だ。

 なによりも、明治初年における「博徒」とはいかなる人々をさすのかが、本書では明らかでないのだが、研究書から「ヤクザ」とか「無頼の徒」などという言葉が引用されているので、著者もおおむね、そのようなものと考えておられるのかと思われる。

 だが秩父事件指導者たちを、「ヤクザ」や「無頼の徒」と呼ぶには無理がある。
 というのも、彼らはときに博打を打つことはあっても、職業的な博徒ではなく、養蚕を中心とする農業を営みつつ、他の仕事からも収入を得ていたからである。

 本書には引用されていないが、田代栄助は調書の中で自分は「子分と称する者」200人を持つと述べている。
 栄助が困民党指導部に招請された理由の一つに、そうした背景があるのは事実だろう。
 しかし、武装蜂起に参加したなかに、栄助の「子分」と思われる人物は、柴岡熊吉くらいしか見あたらない。
 つまり、田代栄助の「博徒」的側面は、蜂起の過程で機能した形跡がほとんどないのである。

 なぜ、総理が田代栄助でなければならなかったのかという問題を解くのは難しい。
 裏社会に一定の顔が利くことも、一つの背景ではあったと思われるが、それが唯一最大の理由だというわけではない。

 秩父事件は専制政府転覆を意図したものであったとわたしは考えている。
 博徒が公権力と対決したのが秩父事件であるならば、それに参加した数千名の民衆の参加動機は何だったのか。

 秩父事件における「博徒」の要素を軽視するべきではないが、著者の見解には同意しかねる。

(ISBN978-4-582-85405-3 C0221 \780E 2008,1 平凡社新書 2007,8,7 読了)