木原悦子『万歳事件を知っていますか』

 ずいぶん以前に読んだ本の再読。
 1919年に朝鮮半島で起きた三・一独立運動に対し、日本政府は残忍な弾圧を加えた。

 その代表的な事実が、チェアムリ(堤岩里)教会でのキリスト者・村民虐殺・放火事件である。

 1992年に同地を訪ねた際の紀行があるので、忘却しないために、記しておこう。

 

 午前中に独立記念館を見学したのでとても重い気持ちになっていた。昼食のソルロンタンはとてもうまかったが、これからチェアムリに行くことを考えるとOBビールを飲む気にもなれなかった。
 チェアムリはのびやかに広がる水田のなかに低い丘が点在するといった、日本のどこにでもあるような農村だった。屋根の反った朝鮮ふうの民家や路上に広げられたむしろの上のトウガラシが韓国らしさだといえばいえた。反対側の丘のきわには、屋根の反っていない新しい家も見えた。
 教会につくとまず礼拝堂に入れていただき、旅行団全員が自己紹介をしたあと、カンシンボム(姜信範)牧師から事件とその後についてのお話をうかがった。通訳は岡田理氏である。大要は以下のとおりだった。

 

 私は'80年3月にチェアムリに赴任しました。'87年と'89年に渡日した ことがあります。ここで起きたことを日本人に伝えるととても驚いていました。しかし歴史は消すことができません。胸の痛む話をしなければならないのは残念ですが、歴史を事実のとおり伝えるのが私の使命です。
 事件の犠牲者のうち現在7家族が今もチェアムリに住んでいます。中には目撃者のチョンドンイェさんもいます。
 当時の教会はハングルも勉強でき、国を愛する気持ちも勉強できる場所でした。だからみんな「マンセ」を叫んだのですが、それが日本人に憎まれることとなったのです。
 事件は1919年4月15日に起きました。駐在所のササカとスウォンの憲兵だったアリタトシオが○○の弾圧のことで謝罪したいといってここの礼拝堂に人を集めて殺し、石油をかけて焼いたのです。これで21名が死にました。またカンさんは軍刀で切られて殺され、ホンさんは銃でうたれて死にました。女性は2人が殺されました。
 日本人はチェアムリ以外にも10いくつかの村を焼きました。またコジュリの天道教信者だった6人を殺しました。その後スコルピオ博士が埋葬所を発掘し、お墓を作りました。最近になって記念館も作られました。それは皆さんがバスをおりたところです。
 現在チェアムリでは70世帯のうち約100名が教会の信者です。暴力をふ るったのでなく独立マンセを叫んだだけなのにこのようなことが行なわれ
たのです。このような事件は二度とあってはなりません。(走り書きのメモから復元したので必ずしも正確ではない。○○は地名だが聞き取れなかった)

 カン牧師の話を聞いたあと、礼拝堂に隣接して建てられている資料館を見学した。資料館には年表や現場あとから発掘されたらしいガラス片などの遺物、各種写真や事件を描いたなどのほか、かつての教会のミニチュアなどが展示されていたが、ハングルの読めない私にはメモをとることすらできなかった。その当時は礼拝堂でも男女が仕切りをへだてて別の席にすわるようになっていたのだそうだ。

 その後裏手の石段を登り、犠牲者の合葬墓に詣でた。コンクリートの土台の上に直径10メートルくらいの土まんじゅうが盛ってある。韓国のお墓は土まんじゅうなのだと世邦旅行社ガイドのパクさんから教わった。土を2メートルくらい掘り下げ、遺体を置いて、その上に土まんじゅうを盛るのだそうだ。お墓のかたわらには「堤岩里三・一運動殉国二十三位之墓」と彫られた屋根つきの石塔が建てられていた。石塔の側面には犠牲となった23名の村人の名前が彫られていた。カン牧師のお話にあったように、23名のうち女性が2名含まれていた。ところがこの2人についてはたとえば「洪元植 同夫人金氏」のように苗字しか誌されていない。パクさんはこれが韓国女性の社会的地位を示しているのですと言っていた。彼女は、「韓国では中年以上になると家庭内の実権は女性に握られている」という岡田氏の説明にすこぶる不満だったようで、翌日になっても「あれはおかしい」と言っていた。

 私たちは墓の前に「三・一独立運動殉難者追慕」「日本国埼玉歴史教師一同」と書いた菊の花束を捧げ、会長の発声で黙祷を行なった。この黙祷は5秒くらいだったが、私はこの黙祷時間をとても短いと感じた。「パリ、パリ」とせかされ続けた(文句を言っているのではない)旅行だったが、せめて一分間くらいは黙祷していたかったように思う。私のようなものにも、多少の宗教心が残っているのか。国を愛するがゆえに、またクリスチャンであったがゆえに日本人によって虐殺された人々に思いをいたすとともに、その現場に日本人たる私たちが立っていることの意味を考える余裕がもっとほしかった。そして、「私たちは写真を撮るためにチェアムリに来たのではない」ということをカン牧師や村の人たちにも知ってほしかった。
 資料館のわきには高さ2メートルくらいの「三一運動殉国紀念塔」と彫られた石塔があった。文字の上には太極旗も彫りこまれている。木原悦子氏の『万歳事件を知っていますか』(平凡社)によれば、この字はイスンマン(李承晩)によるものだという。

 チェアムリを辞去する時間が近づいてきた。カン牧師の自宅で『チェアム教会と3.1運動史』を頒けていただいた。日本キリスト教団出版局から日本語版も出ているというが、いつか原語で読んでみたい。
 バスの前にもイスンマンの同じ字が彫られた3メートルくらいの石塔があった。近所の子どもが自転車に乗って走り回っている。この子たちはチェアム教会の悲劇をもう知っているのだろうか。庭からこちらを見ている村人たちは私たちのことをどう思っているのだろう。発酵しきれない思いを抱いてバスに乗った。

 第一次世界大戦のことを教えていて、ふと思い出して再読したのだが、近年「日韓併合は韓国側の要望でもあった」とか「植民地支配によって韓国は近代化された」などの屁理屈を弄して、歴史の本質を歪曲する声が大きくなっている中で、体験者の証言を読み返しておきたいと思った。

 テレビの画面でデモの場面を見ることさえない高校生に、3.1独立運動を理解してもらうことは、容易なことではない。
 だがそれ以上に、3.1独立運動の実態はよくわかっていない。

 カン牧師の話にも出てきた駐在所長の佐坂は、どのようにして堤岩里に居着いたのか。
 彼が大量虐殺ののちも罪に問われることなく、この地で暴威を振るい続けることができたのはなぜなのか。
 そして戦後、彼はどうなったのか。

 歴史を組織的に偽造している人々は、思想的系譜をたどれば、佐坂の末裔にあたる人々だろう。
 事実を忘れないことが必要だ。
 偽りの歴史に惑わされないためにも、生き残った人々の証言を心に刻まなければならない。

 また歴史偽造者たちのつけいる隙を与えないためにも、3.1独立運動指導者に治安維持法が適用されたなどというようなケアレスミスはなくしてほしい。

(ISBN4-582-82368-8 C0022 \1600E 1989,2 平凡社 1992,8,29 読了 2008,1,10 再読)