鎌田慧『大杉栄 自由への疾走』

 国家がテロルの装置であることは、とっくの昔にレーニンが暴いて見せたとおりだ。

 レーニンや、この本の主人公である大杉栄が生きていた20世紀には、警察と軍隊が主要な暴力装置だった。
 20世紀後半になっても、基本的にその構図は変わらなかったと思われる。

 警察・軍隊は、その活動をおおむね法の枠内に制限されるが、情報機関は法を越えて活動し、暴力を行使する。
 ナチスドイツ、ソ連、そしてアメリカが、情報機関の三大先進国だったという考えは、たぶん的外れではないと思う。
 ナチスは滅びたが、ロシアとアメリカはまだ健在である。

 日本の情報機関も、われわれの身の回りで、ヤミの予算を使って秘密裏に活動しているはずだ。
 インターネットの普及は、第二の頭脳だといっても過言ではない個人のパソコンへの侵入を可能にし、2ちゃんねるへの匿名による書き込みによって権力による情報操作を極めて容易にした。

 それだけではない。
 携帯電話や日本中至るところに設置されている隠し撮りカメラや顔・音声識別ソフトを駆使することによって、個人は丸裸にされている。
 人間にICチップを埋め込めば、その人物がどこにいるかをたちどころに把握することができる。

 現代は、大杉らが生きていた時代よりはるかに陰険で残忍な時代だといえる。

 1910年代は、社会主義がもっとも輝いていたはずの時代だが、アナキストらは、社会主義という政治体制が自由な個人と両立し得ないことに気づいていた。
 しかし国家による暴力の前にあっては、社会主義者と無政府主義者との共同は必然だった。
 アナキスト大杉栄も、荒畑寒村ら社会主義者と共に活動していたが、彼の思想や行動の中核にあったのは、自由な個人という発想だった。
 本書のタイトルは彼の生き方を的確に言い表していると思う。

 自由に向かって疾走する大杉は、身辺にさまざまな波紋を生じさせながらも、多くの人々から愛され、かつ不屈に闘う姿勢を持ち続ける。

 関東大震災という未曾有の天災のさなかに、テロを実行したのは軍隊だった。
 河合義虎らは警察署の敷地内で刺殺の上、死体を遺棄された。
 大杉は伊藤野枝、橘宗一少年は憲兵隊によって白昼拉致され、殺害の上井戸に投げ込まれた。

 茶番に等しい軍法会議は、憲兵大尉の甘粕正彦ほか数名による個人的犯行という無理な筋書きを認定し、甘粕らは事実上、英雄扱いされた。

 虐殺の背景も実態も、今なおまったく解明されていない。
 7歳の橘宗一を殺害したとされた者たちは、無罪となった。
 国家が行ったこの非道に、市民はどのように対抗できるか。

 残された大杉の同志たちが復讐テロを企てたとて、非難はできまい。
 しかしテロを企てたというだけでまた、和田久太郎が死刑となった。

 大逆事件のでっち上げで、罪なき人々に罪名を着せて殺害した日本国家は、またも故なく人を殺した。
 大日本帝国とは、これほどまでに「薄汚れた国」だった。
 この国を「美しい国」にしたいのならば、一連の事実を糾明し、国家として被害者に謝罪すべきだろう。

(ISBN4-00-022359-3 C0023 \2600E 1997,10 岩波書店 2007,9,3 読了)