深谷克己『日本の歴史6 江戸時代』

 封建制は克服すべきものと思っていましたから、江戸時代日本の諸制度は、克服の対象として考えることが多かったように思います。

 社会のしくみとしては、江戸時代が、個の圧殺の上に成り立っていたのはまちがいないと思われますから、「分」相応であることを良しとする、江戸時代的な秩序意識は、やはり克服されるべきでしょう。

 しかし、江戸時代の経済のしくみについては、最近とくに、魅力を感じています。
 たとえば、この本は、江戸時代の経済について、「村は町に、穀類や蔬菜類を供給し、浦(浜)方は塩・干鰯を供給し、山方は薪炭、材木を供給するというように、相互に必要品を交換しあい、その生産活動が生活を成り立たせた」と、素描しています。
 この素描の冒頭に、「町は村に工業製品を供給し、」という文言を挿入すれば、これからのあるべき日本の姿そのものではないか、と思いませんか。

 江戸時代を克服して成立した近代日本は、町が、在方や山方や浦方から、食糧だけでなく、人間も自然も生活様式も、なにもかも一方的に収奪し、都会的な価値基準が蔓延し、町以外の場では、前向きの暮らしが成り立たないほどに、ゆがんだ社会になっていったと思われます。

 江戸時代の日本は、鎖国を前提として成立していたわけで、今後の日本が鎖国をするわけにはいかない以上、江戸時代の経済の復活など、あり得ないことです。
 歴史は、未来を考えるヒントであって、初めて意味を持ちます。
 山岳地帯と扇状地・盆地が国土のほとんどを占め、まれにみる多雨・多湿な気候条件にあり、寒暖の海流が錯綜するという立地にある日本の産業構造はどうあるべきかを考える上で、江戸時代は、ヒントに満ちた時代だったのではないかと思われるのです。

 上の素描で、「山方」という形でくくられている山村も、よく眺めてみると、一定の平坦地を持つ山地農村と完全な山村に区別され、それらの中間的な存在の村もあるように思われます。
 雑穀生産を基本とし、養蚕や機織りなどによって年貢上納のための現金収入を得ていたのは、山地農村であって、正真正銘の山村となると、農業生産よりもむしろ、「山稼ぎ」の比重が大きかったのではないか、と思われます。
 明治17年に起きた秩父事件は、山地農村の農民が中心部隊であって、純然たる山村からの、積極的な参加は、見られません。

 この本には、江戸時代の物流は、河岸を拠点とする河川運輸と廻船が基本であったと、書いてあります。
 そうだとしても、峠を媒介しての、人馬の背による流通は、とるに足らないものだったかどうか。
 山稼ぎの人々の生活の実態や、彼らによるネットワークの存在の有無、人別帳に記載されていない人々と山村住民との関わりなど、わからないことが、まだまだあります。

 江戸時代は、多くの記録を残しましたが、それらはほぼ、支配のための記録です。
 山村を行き来した人々の多くは、自分たちの暮らしを記録するというようなことを、しませんでした。
 しかし、それらが、未来へのヒントである可能性も、多々あるような気がします。

(ISBN4-00-500336-2 C0221 \740E 2000,3 岩波ジュニア新書 2000,12,16 読了)