曽野綾子『湖水誕生』(上・下)

 この小説は、雑誌『週刊金曜日』252号(1999,1,29)の読書欄で、紺屋典子という人が紹介していたので知った。
 読んでみると、とても気分の悪い、不愉快な小説だった。


 気分の悪いその一。

 著者が徹頭徹尾、民衆を蔑視し、かつ敵視している点。
 著者が蔑視・敵視しているのは、民衆だけではない。
 自治体も、営林署職員も、山小屋経営者も、北アルプス・高瀬・七倉ダム建設事務所にとって、何らかの足かせになりそうな存在は、すべて、意地汚く、こすからく、醜く描かれている。

 たとえば、大町の漁業協同組合や釣り愛好者は、このように描かれている。

 この山奥の市に漁業組合があるというと、知らない人は驚くのである。それは主に高瀬の沢にいるイワナに対するものであった。仮排水路を通して、本来の川の水を一時地下トンネルに追いやるとなると、そこで大体決まった沢に夫婦単位を守って住みついているイワナは獲れなくなる。そのほか「川の水が汚れている」「ヘドロが流れ出している」という苦情もあとをたたない。  飛ぶ鳥なら、あとを濁さずに住むであろう。しかし人間は鳥ではないのだから、身動きすれば何かが起こるのは当り前である。水をいじれば少しは濁りもするだろうし、土を動かせば土埃くらいたつ。しかしそのような当然のことも土地の人々は許さない。なぜならダムを造る人は「自然の破壊者」だからであり、それによって無辜の市民は愛する郷土を破壊され失うことで精神的な痛手を蒙るという論理である。
 著者は、「水をいじれば少しは濁りもするだろうし、土を動かせば土埃くらいたつ」と、ダム建設による環境へのインパクトを、さも小さなことのように描いてみせる一方、そんな「当り前」なこともわからないのが、無知な「土地の人々」だという。  事実、各地のダムも、長良川河口堰も、リゾート施設も、著者のいうような論理に立って建設されてきた。  しかし、一貫して情報を隠し、権力と金力を笠に着て、膨大な税金を投入しては、国土を破壊し、地方に住む人々を追いやり、農産漁村を衰退に追いやってきたのは、誰なのか。  この小説には、そのような「真実」の一端たりとも、見あたらない。

 ダム建設に対する補償問題に関連して、著者は、建設事務所長の妻に、このように言わせている。

 今、日本人の社会には、自分が何一つ損をしないという情熱があるのですね。損をできるということは、人間としてすばらしいことですのに。実際は決定的に損をかけるようなことは、今の社会機構にはあり得ませんし、発電所を作るということを、国全体の必要性の上に立って見ることができない、という視野の狭さから総ては来ていると思います。

 このあたりが、著者の面目躍如といったところか。
 一般民衆に対しては、このように、「損ができるすばらしさ」を説き、「国全体の必要性」のわからない「視野の狭さ」を難じてみせる。
 私としては、東京電力に対してもひとつ、「損ができるすばらしさ」を説いてほしいところだが、「あとがき」を見ると、著者は、東京電力株式会社の全面的な取材協力によって、この作品を書いたのであった。(^^;
 気分の悪い、その二。

 弱者や自然に対する、やりきれないほどの著者の無神経さ。

 こんなやりとりがある。

「今晩は。しばらく電話をしなくて悪かったな」 「いいえ、元気だった?」 「うん、僕はいいんだけど、ちょっと事故があったんだ」  はっと息をつめるような気配が伝わってきた。 「誰が・・・」 「二建(第二建設事務所)の周辺ドレーン坑の坑口で、落盤事故があってね」 「なくなったの?」 「神吉(建設)の下請の人が二人埋まった。二建の所長の六郷君、来てまだ二週間目だったからね。あれは実に気の毒だった」
 事故が起きて気の毒なのは、死んだり怪我をした人ではなく、一貫して、東京電力やゼネコンなど、使用者・責任者の側なのだ。  そういう人間観・・・。  著者に似た人間観の持ち主には、著者の、特権階級や自称有識者や大企業にはあくまでも卑屈かつ無批判で、権力や地位や財産のない普通の人間に対してはあくまでも冷酷な、あたかも確固とした見識であるかのように、錯覚させられるのかもしれない。  しかし、私には、それは単なる人間的共感力の欠如としか、思えない。

 著者は、「ド素人」をひどく軽蔑してみせる。
 ダム建設の技術者だけが「玄人」だと思っているからなのだろう。
 しかし、山には山の、川には川の、農業には農業の、それぞれ「玄人」がいる。
 このような「玄人」は、日本列島で人間が生きていく上で、どのような暮らし方をすればよいかを知っている。むろん、それは、日本人の暮らし方の、ある一部についての知識である。

 そのような知識を幅広く吸収し、再構成する視野の広さを持った人が「知識人」の名に値すると思うが、そんなことを、著者に期待しようとしても無駄だろう。

 著者が、ダムの湛水によって生きながら水没する森について、どう描いているか、紹介しよう。

 もうあちこちに、水に漬った木々が湖底から、指を伸ばした手のように突き出して見えるようになっていた。それを、生きながら埋められていく死者の末期の足掻きの表情だ、と書いたマスコミがある。しかし現場の印象は不思議と違うのであった。木々は納得しているという風に、彼らは感じていた。なぜなら、湖は人々の生活を支えるために生まれつつあるのだったし、そのために木々は死ぬことを納得しているとしか思えないのだった。

 「現場の印象」というより、東電やゼネコンの視点からしかものを見ない著者にとっては、この程度の印象しか持つことができなかったというべきだろう。
 さらに、自然破壊にもの申す「登山家」の描き方。
 彼は決して自然主義者などではなかった。東京のマンションは冷暖房完備だし、自動車も持っていれば黒木の家にはないオーディオの設備も、果たして使いこなしているのかどうかわからないマイコンも逸早く買っている。ただ山をやるというだけで、水力発電も高速道路も環境破壊だと決めてかかっている典型的な大脳欠損症タイプの男なのである。

 著者にいわせれば、「工事が進んで、コンクリートの巻き立てが済んだ段階になると、山は静かに人間を迎え、人間と語ろうとする」そうだ。コンクリートによって醜くつぎはぎされた山を美しいと感じる、おそるべき美的感覚・・・。
 最後に、この本を紹介してくれた、紺屋氏の紹介文について一言。
 紺屋氏は、無駄だと批判されている公共事業について、「ほかの人々には環境問題でも、土地の人には命の問題というケースも少なくない」と書いている。
 この場合の「命の問題」というのは、自然環境を切り売りし、破壊することによって収入を得るしかなくなった農山漁村の産業構造のことをいっているらしいが、この小説の著者は、そのような歪んだ視点での「土地の人」へのまなざしさえ、持っていないことを指摘しておこう。

(上巻 ISBN4-12-001436-3 C0093 \1200E 昭和60,11 中央公論社 1999,2,10読了)
(下巻 ISBN4-12-001437-1 C0093 \1200E 昭和60,11 中央公論社 1999,2,11読了)