斎藤貴男『バブルの復讐』

 サブタイトルに「精神の瓦礫」とあります。
 この10数年間に進行した日本人の精神的崩壊を描いたルポ。


 それがバブルの復讐であるのか、戦後経済史の復讐なのかは、何とも言えませんが、無惨な現実はどうしようもありません。

 ただ、バブルを期に日本の人間崩壊が顕在化したのは、確かでしょう。
 わたしの住む山村でも、バブル時代の狂騒は記憶に新しいものがあります。

 高度経済成長の時代にも矛盾は存在しましたが、社会の芯は腐っていなかったように思います。
 人々は「清く正しく美しく」といった価値意識をほぼ共有していましたし、社会も弱者へまなざしを向けつつありました。

 従って、紆余曲折を経ながらも社会は良い方向に向かっているという思いは、国民に共通していました。
 高度成長期の基幹産業がものづくりだった(むろんそれ自体の中に重大な問題点を孕んではいたのだが)ことが、社会の健全さを残していたということかもしれません。

 バブルは、何かを作ることによって利益をあげるというのではなく、株や証券や土地登記簿などそのもの自体としては実態のないカネの額面に人々が踊るという、ひどい人間崩壊劇を見せてくれました。
 そして何が残ったか。

 今やバブル期にもまして、法的規制や非関税障壁などが取り払われたという環境のもとで、紙切れである証券類のような形すら存在しない、電子マネーのやりとりによって莫大なカネが世界を行き来し、企業の栄枯盛衰劇が展開されています。

 経済格差が国民を分裂・対立させつつある実態は隠蔽しきれるものではありませんが、ぷちナショナリズムの目くらましは、とりあえず功を奏しており、日本社会崩壊のちょいの間の先延ばしには役に立っているいるようです。

 このような時代にあっては、社会を見る目を曇らせないようにしないと、無自覚のままに自分の人間が崩壊してしまいかねません。
 時代を読むキーワードは、弱者へのまなざしと人間としての誇り、といったものだと本書は語っていました。

(ISBN4-06-273796-5 C0136 \619E 2003,7 刊 講談社文庫 2006,2,20 読了)