永原慶二『新・木綿以前のこと』

 木綿が商品作物として栽培されるようになったことが、経済史的にどういう意味を持っているかをわかりやすく説いています。


 この本が積ん読状態になっていたのは、わたしの関心が絹や生糸に長らく傾いており、綿の歴史は主として西国に関係するものであろうと誤解していたことによります。
 しかし本書では、武蔵国を含む関東地方においても、戦国時代から木綿生産が始まっていたことが明らかにされています。

 経済に与える影響という点では、木綿が使用・生産されていたかどうかということより、どれだけ商品化されていたかということが問題なのですが、上方や東海ほどではないにせよ、関東農村でも地域経済圏内における木綿流通は存在したようです。

 この本を読んで驚いたのは、分業や商品化を前提として成立した木綿生産によって、商品経済が怒濤のごとく広がっていくという事実でした。

 江戸時代以前の関東山村の生活や経済については、ほとんど何もわかっていないといってよいほど、研究されていません。
 そこで、生活に必要なほとんどは自給されていたと仮定するところから、研究を始めるとします。

 すると、衣服はもちろん、苧麻や種々の木質繊維に求めざるを得ません。
 しかし、江戸時代半ば以前には、木綿が普及し始めます。
 秩父地方では、盆地以外で木綿を栽培するのは極めて困難であり、たとえ栽培できたとしても、収穫できるのはごくわずかにとどまったでしょうから、郡外へ出荷できるほどの産出量はなかったと思われます。

 ちなみに、『新編武蔵風土記稿』にみえる文政年間の各村の物産調には、金尾、金沢、黒谷、横瀬、大宮郷、品沢、伊古田、太田、野巻、薄、小森、下小鹿野、長留の13ヶ村に木綿の記載がありますが、これらの村々では、温暖で利水と陽当たりの良い耕地に限って木綿を栽培していたものでしょうから、その流通はせいぜい郡内に限られていたと思われます。

 この本には「古手」(ふるて=中古布)が広範囲に流通していたことが指摘されていますから、江戸時代の秩父地方の衣服素材は緯糸(よこいと)に主として古手を使い、経糸(たていと)には苧麻や郡内産木綿を使ったかと想像されます。

 しかし、古手は現金をもって購入しなければならないのですから、衣服材料を入手する目的に限っても、何らかの商品生産に従事しなければならなかったわけです。

 秩父事件に、「紺屋」と呼ばれる農民が登場します。
 本書に紺屋は、購入した藍玉を使って「農家の自給的な手紡糸を少しずつ染め」ることを業としたとありますから、どれだけの需要があったものか、疑問です。

 ともかく、木綿の普及をテコとして、江戸時代の村は急速に商品経済化していきます。
 富への衝動は、いかなる圧力によっても抑えることはできず、封建社会を崩壊へと追いやっていきます。

 市場が国内に限られているかぎり、経済的自由の要求は民主主義と共同歩調をとり得ます。
 しかし、世界市場の時代にあって、自由の要求は他者の犠牲と裏腹の関係にあることに留意しなければなりません。
 松方デフレ後、外国産綿花の輸入によって国内綿業が壊滅したように。

 秩父事件の意義も、この面からの再検討が必要ではないかと思われます。

(ISBN4-12-100963-0 C1221 P580E 1990,3 中公新書 2004,8,24読了)