大牧冨士夫『徳山ダム離村記』

 徳山ダムをめぐる虚々実々の交渉が行われていたさなか、1977年から1982年にかけての村内の動きを克明に記した、内部ルポ。


 著者は、徳山村出身で、徳山中学校に勤務されていた中学の先生です。

 新聞記者が書いたルポとくらべて、問題へのアプローチがじつに直截的で、論旨が明快だと感じます。
 『浮いてまう徳山村』がよく書けていないとは思いませんが、政治的配慮によって掘り下げが不十分になってるのではないかと感じる部分があったのは、事実です。

 上記のように、この本は、徳山ダムをめぐる全過程を記したものではありませんが、ダム補償をめぐって、どのようないきさつがあったのかを、知ることができますし、なぜそうなってしまったのかを考える上での示唆が、いくつもあります。

 日本におけるダム建設とは何であったのかについては、別の機会に改めて、考えをまとめてみたいと思います。

 人家を沈めるダムに、賛成する地権者はいないと思われます。
 したがって、反対闘争や補償をめぐる交渉が行われるわけです。
 村や地域の運動によって、大規模なダム建設自体が撤回された事例は、徳島県細河内ダム(木頭村)以外には、ないと思います。

 その意味で、ダム反対の運動が完全に勝利するのは、きわめてまれなことだったのです。
 結果だけを見るなら、ダム反対の運動は、ほぼすべてといっていいほど、敗北におわってきました。

 それなら、闘うことをしないで、ひたすら権力の恩顧にすがり、流れに身を任せていても同じかというと、それはぜんぜん、ちがうのです。
 闘わずして敗北した場合、相互不信と悔恨しか残らないでしょうが、きちんと闘えば、敗北しても、人としての矜持を胸に刻むことができます。
 それは、人にとって、得難い財産です。

 徳山ダムは、残念ながら、日本のダム史における、敗北の一典型だったのではないかと思います。
 この本の中で、著者が何度も指摘しているように、村当局が村民に対する情報の公開を渋ったり、秘密交渉が行われていたりしたのは、補償交渉で、権力側がいいように事を運ぶのは、たやすいことだったでしょう。

 委員会や村長など、村の代表に、もっとも必要なのは、あくまでも村を存続させていくのだという気概と展望でしょう。
 今また、自治体の腰を砕けさせかねない、町村合併が強行されようとしていますが、軒昂たる姿勢で合併に抗しようとする町村があるのは、心強いかぎりです。

 それぞれの地域に根ざした暮らし方が、日本の自然や風土にもっとも適した、日本人らしい暮らしなのです。
 そのことに誇りを持つような人間を育てていかなくてはならないし、そういう方向での「構造改革特区」を数多くつくっていくべきだと思います。

 徳山村の悲劇(とあえて書きますが)をくり返してはいけません。

(1991,10 ブックショップマイタウン刊 2003,2, 読了)