鶴見和子『南方熊楠』

 先月、ある人から、「おまえは南方熊楠を知っているか」と問われたのですが、今まで、名前程度しか知らなかったので、熊楠に関する本を何冊か、読んでみました。

 伝記としては、水木しげる『猫楠』(角川ソフィア文庫 ISBN4-04-192907-5)、神坂次郎『縛られた巨人』(新潮文庫 ISBN4-10-120912-X)など。
 『南方熊楠』は、コンパクトな熊楠論です。
 わたしはまだ、南方熊楠の著作に接したことがないのですが、人物論より、学問のあり方に感銘を受けます。

 たとえば、学問とは、すなわち遊びたるべしとの論。
 卒業のため、あるいは糊口を塗することを目的とした学問の否定です。
 熊楠にとっては、学問自体の価値を誇りとして積み重ねてきた研究を天皇に認められたことは、世間を超越した、絶対的な存在によって、その価値を保証されたと思えたのでしょう。

 混沌たる事象の本質を見抜き、データやコトバとして抽象化する作業は、天皇であろうが、世間であろうが、それが第三者によって認められるかどうかはどうでもいいことであって、自らの学問的良心や矜持をいかに満足させるかが、だいじなのだと思います。

 わたしも多少、菌類に関心を持つ、一市井人ですが、これらの書を一読することによって、また一段と菌類への関心をそそられました。

 熊楠の神社合祀反対運動からは、汲めども尽きぬ示唆を与えられます。

 彼はたぶん、生態系ということばを使っていませんが、粘菌にまなざしを注ぐことによって、生態系全体を視野に入れて自然を見ています。
 一つの自然事象を理解するためには、それがいかなる土・大気・生物相の中で生成してきたのかを、動的に把握すること。
 これは、肝に銘じなければなりません。

 さらに、生態系が地域住民の暮らしの中に息づいていることも、指摘しています。
 神社合祀とは、そもそも日本的近代化の過程で生じた社会問題です。
 この問題に正面から向き合うならば、神社合祀が生態系とともに、地域住民の暮らしや地域社会、また地域に暮らす人間の心性を破壊するものであることにも、目を向けざるを得ないのです。

 自然と人間のいずれが大切かというような浅い議論ではなく、地域の生態系の中で、そこで暮らすにもっともふさわしい、どのような心性が培われてきたのかにまで目配りするなら、なにをどう守り、次の世代に継承すべきかが、明らかになるでしょう。

 わたし自身、まことにささやかな自然保護の運動にもかかわっているだけに、熊楠のことばをしっかりとかみしめたいと思いました。

(ISBN4-06-158528-2 C0123 \1000E 1981,1 講談社学術文庫 2003,2,12 読了)