熊本日々新聞編集局編『山が笑う 村が沈む』

 着工をめぐる動きが大詰めを迎えつつある、熊本県川辺川ダムの地元、五木村周辺に生きるおおぜいの人々にとって、ダムとは何なのかを丹念に取材したルポ。


 『国が川を壊す理由』は、川辺川ダムが、治水にも利水にも有害無益であることを、完璧に論証した書物ですが、この本は、川辺川ダム建設計画によって、人のつながりや人生設計を翻弄されてきた、地元の人びとの肉声を集めています。

 水没世帯数528世帯という数字は、ダムの貯水量以上に、地域の暮らしにとって壊滅的な影響をもたらす巨大工事であることを、物語ります。
 五木村でも、計画段階では、山林地主層を中心に、国・件を相手どった反対にむけた裁判闘争が闘われましたが、一審敗訴という、司法の壁の前で、和解の受諾をやむなくされました。
 司法が行政と一体となって、ダム建設を進めているといっても過言ではなかったのが、20世紀日本のダム闘争だったのです。

 ともかく、反対の動きは(有形無形の多くの成果をあげつつも)粉砕されたのち、将来への展望を考えて、多くの人びとが村を去り、村は「ダム後」をどうするかという課題に向かい合うことを余儀なくさせられました。

 ここで注意すべきは、五木村のこうした事態は、ダム計画の存在によってドラスティックな展開を見せたとはいえ、日本全国どこの農山漁村でも、多かれ少なかれ、みられる現実だということです。
 2003年1月30日、在日米軍の空母艦載機夜間発着訓練(NLP)を、広島県沖美町が、誘致に向けて動き出しましたが(2月4日現在先行き不透明)、町当局のねらいは、「迷惑」施設の受け入れに伴う、国からの財政支援への期待にほかなりません。

 このような生き方がすべてではないにせよ、そうせざるを得ないのが、今の日本の農山漁村なのです。
 この本の中には、「ダム後」を模索しようとする村人が語る、ダム反対派への批判が、随所に見られます。
 村長さんは、ダム中止を求めるのは、ダムに痛めつけられた村への追い打ちのようだと語っておられます。
 ダムを中止しても、村を元に戻すことは不可能だからです。

 しかし、ダム建設によって、日本の山村がかかえる課題が解決するわけでは、ないのです。
 今の日本の経済構造のもとでは、ダム建設に進んでも、ダムをはねのけても、苦しい現実に、変わりはありません。
 たとえば、7世代先といった長いスパンで考えて、どちらがより確実かといった発想で、村づくりと人づくりを進めていかないと、わたしたちは、なにもかも失ってしまうのではなかろうかと、考えてしまいます。

(ISBN4-7512-0813-6 C0036 \1800E 2001,9刊 葦書房 2003,2,4 読了)