松下竜一『砦に拠る』

 『松下竜一 その仕事』の第15巻。
 熊本県下筌ダム反対を闘った、室原知幸氏を描いた小説です。


 室原氏は、ダム建設とは、法に背き、理に背き、情に背くことだと喝破しています。
 まさにそのとおり。

 治水ダムといいながら、いざというとき、治水の役には立たないのは、神奈川県玄倉ダムの放水事故で明らかになりました。
 利水と治水を両立させるということが自己矛盾であることくらい、子どもにもわかる理屈です。
 多目的ダムという形容自体が、自己矛盾以外の、なにものでもありません。

 あのように巨大な構造物を建設するというのに、ダムの耐用年数という問題が、ちっとも考えられていません。
 ダムとは、理性の対極に位置する存在であるといっても、過言ではありません。
 まさにそれゆえに、人間の理性は、ダム建設を否定してやまないのです。

 理性を沈黙させるのは、権力と金力です。
 日本各地のダム計画地で、札たばで頬を叩かれた人たちが、示し合わせたように、似た行動をとっているのに、驚いてしまいます。
 札たばに拝跪した人たちは、理性を売らない人を憎悪し、異端視し、孤立させようとし、蔑視し、嘲笑しようとします。
 目前の利を求め、長いものに巻かれて安心する弱さや、権力や多数の側にたったとたん、闘おうとするものを見下す傲岸さもまた、人間というしかありません。

 理性を売らない人はまた、国家から敵視されます。
 国家は、国にあらがうことへの報いとして、従わない人びとを徹底的に迫害し、生活さえままならないほどに、干しあげます。
 そこでは、法律さえ、いとも簡単に枉げられ、遵法状況を監視するはずの司法権も、権力に迎合しします。

 平和だった人間関係がめちゃめちゃに破壊され、相互不信と憎悪の山を築きながら、造られていくのが、ダムなのです。

 国家と闘うことの意味は、なんでしょうか。
 作者は、室原氏に、自分が敗北を重ねることによって、権力の実態が明らかにされ、それが歴史に刻まれるのだと言わせています。
 それは、究極において勝利である、とも言わせています。
 おそらく、これは作者の創作ではなく、室原氏の信念でもあったと思われます。

 わたしも何度か、行政に対し、ささやかな闘いを挑んだことがあります。
 闘うことの意味とは、熱い血の流れる人間が、たしかにそこに生きていたことの、時空を超えた証明であるのだな、と思いました。

 本ホームページにおける読書ノートは、これでちょうど100冊目となりました。
 サイト開設以来、ちょうど満5年です。
 ややもすると、自分の思いばかりが先行する、このおかしなページを見ていただいている皆さまに、改めて、御礼申し上げます。

(ISBN4-309-62065-5 C0395 \2800E 2000,1 河出書房新社刊 2001,11,27 読了)