ジル=A=フレイザー『窒息するオフィス』

 社会主義に対する資本主義の圧倒的勝利のうちに冷戦が終結して、10数年が経過しつつあります。
 社会主義が資本主義よりもよい経済体制であったかどうかについては、

今後さらに検証が必要かと思いますが、社会主義が存在したことによって資本主義に修正が加えられざるを得なかった事実を忘れてはいけないだろうと思います。

 つまりこういうことです。

 多分に美化されて伝わっていたにせよ、社会主義国における福祉や社会権の充実という事実があったがゆえに、社会主義勢力の増大をおそれる経営者たちをして、企業内福祉の充実や福祉行政の拡充という方向に向かわせていた。
 しかし、社会主義が消滅した現在、経営者たちにとって、社会主義をおそれる必要はなくなりました。

 いうなれば、現代資本主義は、1990年代からその本性をあらわし始めたといえるのではないでしょうか。
 かつて豊かな社会の象徴と目されていたアメリカは、資本主義の旗頭であるわけですから、その本質を顕在化させたのももっとも早かったということだと思います。

 資本主義の正体とは、いうまでもなく、あくなき利潤の追求にほかなりません。
 資本主義の価値観において、ほかの何よりも利潤が優先されるのだというのは、ごくあたりまえのことですが、そうした事実をまのあたりにしてなるほどと感じるのは、われわれが、修正をほどこされた資本主義にいかに幻惑されてきたかを示すものです。

 別の読書ノートにも書きましたが、こうした動きは1980年代以来イギリスやアメリカで顕在化しはじめ、1990年代になってドラスチックに進行しました。
 果たしてこれでよいのかという問いかけは、われわれ一般人の耳には届かず、ITバブルの表面的な「繁栄」をセンセーショナルに報道したマスコミによって、世論は踊らされました。

 あらゆる労働の現場で深刻な事態が進行していたにもかかわらず、われわれは何が起こっているのかを理解していませんでした。

 まずは、想像を絶する過重な労働。

 マルクスは労働者が労働の現場にいるときに疎外され、労働から離れたときに自分を取り戻す、と言っていましたが、各種携帯端末に縛られた現在のホワイトカラーにとって、通勤途中であろうが、自宅のベッドの中だろうが、いかなる時、いかなる場所にいようとも、そこは労働の現場です。
 労働時間という概念が無意味化する事態は、いかにマルクスといえど、想定できなかったでしょう。

 そして、企業年金をはじめとするさまざまな社内福祉制度の後退や廃止。
 会社の繁栄が労働者の福祉の充実に結びつくという仕掛けは、会社と労働者の一体感をつくり出すとともに労働者の労働意欲を高め、生産性を向上させるという効果をもたらしたように思いますが、この間、直接的な利潤をもたらすわけではないそうした制度は、無駄なコストと見なされてきつつあります。

 これに代わって労働者のモチベーションを喚起させる仕組みとして構築されたのは、いつ失業するかわからないという恐怖感を常時、意識させるというシステムでした。
 アメによって働かせるのではなく、ムチによって働かせるのです。

 現場では、実際に膨大な人々が解雇され、派遣労働者など臨時的雇用の人々に代替されただけでなく、こまかにランク分けされた職制の中で、労働者同士の連帯感が育ちにくいようなシステムが作られています。

 こうした状況を加速させた大きな要因が、コンピュータの導入であったことは、いうまでもありません。 わたしの働いている現場でも、必要だからコンピュータが導入されているのではありません。
 広大な敷地を持つわたしの職場にネットワークが張りめぐられたのは3年も前ですが、必要がないのですから、いまだにほとんど使われていません。
 財政難だといわれているにもかかわらず、どうしてそんなムダ遣いをするのか。

 コンピュータは、仕事を効率化することで、本来的な職務をより充実させるために使われて初めて意味があるのですが、現在の埼玉県教育委員会のやり方を見ていると、単にコンピュータを使わない職員を排除することをねらっているだけではないかと疑わざるを得ません。

 このようなコスト主義を追求することによって、なにが実現されたのか。

 会社は利潤を得ましたが、労働者の賃金は減少しました。
 それは当然で、賃金や福祉が減少した分が利潤となっただけのことです。

 利潤はCAO(最高経営責任者)や株主の手に渡りました。
 これまた、資本主義社会の常道ですが、労働者が苦悶している一方で経営者が莫大な利を得る現実に不条理を感じるのは、わたしがいまだ修正資本主義の幻に惑わされているせいでしょう。

 ホワイトカラー労働者は、会社の最高幹部クラスを含めて、激しい競争下におかれるのですが、勝者は存在しません。
 だれもが最終的に不要となり、解雇されていくのがこの社会です。

 こういった企業社会は、どこに行き着くのか。

 この本によると、コスト至上主義を採用して大きな利益をあげているインテルのような会社もあります(同社の場合、コストを減らしたからというよりとどまるところを知らない需要増に支えられてる部分が大きい)が、かなり多くの会社で売り上げ自体は伸びていないか、減少しているのが現実のようです。

 コアな資本主義と修正資本主義のいずれがのぞましいか、という議論は社会主義を是とする人にとっては、無意味であるかもしれません。
 しかし、いかなる形であるにせよ、当分のあいだ、新たな社会主義社会が実現する可能性はないと思われますから、資本主義のあるべき姿についてさらに深く省察する必要があるのではないかと思います。

 資本主義社会の矛盾を緩和するのは、政府による、いわゆる所得の再分配政策であると、教科書には書いてあります。
 富めるものから取り、何らかの形で富まざるものを支えるのが、資本主義社会における政府の役割であったはず。

 ま、そんなことを考えている間に、自分の首を洗って待ってる方が先かもしれませんね。

(ISBN4-00-023817-5 C0036 \2300E 2003,5 岩波書店刊 2004,6,1読了)