秩父山地の歴史と文化

1 山域の概要

 埼玉県の中央部・東部は関東平野の一部をなし、西に行くに従って高度を増して関東山地の一角である秩父山地に至る。ここが本大会の舞台となる秩父の山域である。
 山域の北は群馬県境をなす上武山地である。ここには城峰山(標高1038メートル 以下メートルをmと表記する)、父不見山(1047m)、二子山(1066m)、天丸山(1506m)など、岩場を構える個性的な山々が連なっている。
 西は長野県との県境である。ここには三宝山(2483m)、甲武信岳(2475m)など山域の核心部をなす高峰が連なっている。甲武信岳より西は長野県と山梨県の県境で、さらに高度を上げ、国師ヶ岳(2592m)、朝日岳(2579m)、金峰山(2595m)、瑞牆山(2230m)などの山々が連なっている。これらの山の山頂付近はハイマツと岩稜におおわれ、展望もよい。最高峰は標高2601mの北奥千丈岳である。
 甲武信岳から東には、埼玉県と山梨県とを画する尾根が伸びている。標高おおむね2000mを内外するこの尾根には、破不山(2318m)、雁坂嶺(2289m)、笠取山(1953m)、大洞山(別名飛龍山 2077m)、雲取山(2017m)など、針葉樹林と草原の織りなす静かな山々がある。この尾根の支稜にある和名倉山(白石山 2036m)は、独立峰とも言える風格を漂わせている。
 雲取山より東は、東京都との都県境となる。ここからは奥多摩と呼ばれる山域となり、標高はさほど高くないものの、酉谷山(1718m)、三ツドッケ(1575m)、蕎麦粒山(1473m)などの親しみ深い峰が連なっている。  両神山(1723m)は、奥秩父の主脈から離れたところに位置する独立山塊で、たくさんの岩峰を従えた個性的な山容は、はるか関東平野からも明瞭に指呼できる。
 秩父の前衛、すなわち関東平野の周縁部は、奥武蔵・外秩父などと呼ばれ、低山の宝庫である。人気の高いピークは、日和田山(305m)、伊豆ヶ岳(851m)、武甲山(1295m)などである。これらの山々は、秩父鉄道を始め、西武鉄道秩父線や東武鉄道東上線などの駅から近く、一年を通して日帰りハイカーによって賑わっている。
 秩父の市街地は、山域最大の盆地である秩父盆地と小鹿野・吉田など西秩父の小盆地に集中しているが、渓谷に沿う傾斜地にも数多くの集落が点在し、独特の景観と山里の生活文化をつくりだしている。

2 奥秩父の地質と森林植生

 関東山地は、1億5000万年前ごろから始まった造山運動によって形成された山塊である。
 かつて海底だった秩父の山々は、地球のエネルギーによって押し上げられ、秩父中・古生層と呼ばれる堅牢な岩盤や大規模な石灰層などもつ。
 造山運動と浸食が同時に進行しつつある秩父山地の地形はおおむね急峻である。奥秩父の尾根道は、両神山一帯をのぞいて比較的たおやかに登降するが、渓谷は深く切れ込んだV字谷をなしており、随所に滝やゴルジュを構えて、遡行者を魅了する。
 集落周辺の森林は、ヒノキ・スギの植林地やコナラ・クリ・ヤマザクラなどを中心とする雑木林がほとんどである。
 奥秩父の標高700mから1600m内外までは、植生区分上、山地帯と呼ばれ、尾根近くには、ヒノキ・ツガ・オノオレカンバなどが生育している。中腹の斜面にはブナ・イヌブナ・ミズナラ・各種カエデ類が多く、秋の紅葉はみごとである。また沢筋ではシオジ・トチ・サワグルミ・カツラなどが渓畔林を形づくっている。今大会の会場となる霧藻ヶ峰(旧名蛭ヶ岳・黒岩山)、両神山、白泰山の一部に残されている天然林はおおむね、山地帯に属している。
 標高1600m内外より上は亜高山帯となり、山地帯上部から見られるネズコ・キタゴヨウに加えて、コメツガ・シラビソなどの針葉樹林におおわれる。甲武信岳や三宝山の山頂部など、森林限界をわずかに超えて灌木帯となるが、大きな展望が開ける場所はごく一部にかぎられ、奥秩父の縦走路は、ほとんどがこのような針葉樹林帯を行くのである。

3 採集経済時代の秩父山地

 秩父地方における人類の生活の痕跡のうち最も古いのは、約1万年前のものとされる、三峰山麓にある神庭半洞窟遺跡である。ここから出土しているのは、シカ・イノシシ・フナ科魚類の骨片と縄文時代初期の石器である。
 ここから出土した石器の中には、黒曜石など秩父地方では産出しない石材を使ったものがあり、長野県南牧村出土のものと酷似した尖頭器もある。
 縄文時代に秩父地方は、大きな繁栄をみせる。縄文時代は、初歩的な農業の存在が指摘されてはいるものの、山野の恵みに生活を全面的に依存する、採集経済の時代である。秩父盆地から山間部にかけての至るところに散在する縄文時代遺跡からは、シカ・カモシカ・イノシシ・ツキノワグマなど小動物の骨だけでなく、アワビ・ハマグリなど海産の貝までが出土している。秩父で最高所に位置する縄文遺跡は雁坂峠付近にある。縄文人たちは、標高2000mを内外する奥秩父の山岳地帯でも活動していたのである。
 大規模な住居趾は標高700m以下の丘陵帯に多い。現在は人工林や落葉雑木林と化しているが、丘陵帯はもともと、常緑広葉樹(照葉樹)がほんらいの植生であった。採集経済時代の人々は照葉樹林に囲まれた河岸段丘上に集落をかまえ、一時は熊谷市近辺にまで迫っていた東京湾や、黒曜石を産する八ヶ岳北麓の人々などと山や峠を越えて交易しつつ、暮らしに必要な品を手に入れていたのである。

4 東国文化の形成と秩父山地

 荒川や赤平川の河岸段丘上には、大小の規模の群集墳が見られる。これらは、ある程度の経済力を蓄えていた人々の墳墓である。彼らの社会がどのようなもので、どのような暮らしを営んでいたのかについては、ほとんどわかっていない。
 東国は、大和政権との服属関係に少しずつ、組み込まれつつあった。秩父地方も同様で、和銅の献上(708)、防人大伴部小歳の派遣などの記録からその一端がうかがえるとはいえ、全面的な支配関係のもとにあったわけではなかったようである。
 平安時代中期の861年、武蔵国では郡ごとに検非違使がおかれた。『日本三代実録』はその背景として、「凶悪で気の荒い連中が集団をなしており、群盗が山野に満ちている」(意訳)状況を説明している。また899年には上野国で強盗が群起しているという記録もある。これらの群盗は、「シュウ馬の党」と呼ばれる富豪の輩であった。この時代、山岳地帯から海岸沿いに至るまで、東国の人々が武装してネットワークを作り、大和政権の支配秩序に反逆して、独自の秩序を形成しつつあったのである。
 山野の幸に恵まれていた東国では、以前から狩猟の技術が発達していた。防人に抜擢される人が多かったり、「蝦夷」(=東北地方の人々)征服のために動員されたりしたのは、狩猟でつちかった武力を買われてのことだった。
 秩父には10世紀に畿内政権が必要とする馬を生産する「牧」がおかれており、10世紀から11世紀にかけて、それらの牧から畿内政権に馬が献上された記録がある。弓矢に長けただけでなく馬をも自在に乗り回す勇猛な人々が、ここ秩父でも、力をたくわえつつあったものと思われる。
 これら東国の有力な人々は、私戦を通じて次第に統合され、グループを形成していった。武蔵国には、「武蔵七党」と称されるいくつかの武士団が生まれた。この中で、秩父地方に地盤を持っていたのは、丹党・児玉党である。これらの党=武士団は、近隣各所に同族が居住して、強い結びつきをもって戦闘に備えていた。
 10世紀は、瀬戸内海で藤原純友の乱、関東で平将門の乱が起き、畿内政権の支配が揺らいだ時期である。丹党からも将門の軍に投じる者がいたところから、ここ秩父でも将門への同情はあつく、将門が秩父に逃れたのち城峰山で殺されたという伝説や、本大会の会場の一つである霧藻ヶ峰コースの麓にある大血川集落で将門の一族が自害したという伝説が残っている。
 武蔵一円の武士団を束ねていたのは、秩父平氏だった。秩父平氏は、その居館を秩父市中村から秩父市下吉田に移したころから秩父氏を名乗っており、1083年の後三年の役には、秩父武綱が源義家の配下で参戦している。同氏は、武綱から三代を経た重能の時に下吉田から現在の深谷市畠山に移転し、畠山氏を名乗った。重能の子の畠山重忠が治承の争乱の際、源頼朝の配下として参戦し活躍したさまざまなエピソードはあまりにも有名である。
 東国は、これら地方の武士団によって統合され、畿内政権とは異なる支配秩序のもとにおかれていった。

5 群雄割拠の時代

 鎌倉時代から南北朝期、さらには室町時代にかけての秩父のようすを詳細に示す史料はない。おそらくは前の時代に引きつづき、在地の武士たちが現在の大字程度の範囲を掌握し、同族的な結合を保っていたものと思われる。ここでいう「武士」とは、江戸時代のような武士身分の人々という意味ではない。武士身分が確立するのは江戸時代からであって、それ以前の武士は、居村の指導者として暮らしつつ、いざ戦闘というときには、配下の人々を伴っていくさに出立したのである。
 一般の人々は、そのような武士を通して年貢を負担した。東国からは、絹や麻・苧の布、馬などが年貢として納められた。人々はおそらく、農業に限らずさまざまな生業で暮らしており、ものや人の動きも活発だった。
 1292(正応5)年の銘を持つ板碑が能登国輪島に現存する。秩父郡長瀞町産の緑泥片岩で作られたこの板碑は、奥秩父の十文字峠を越えて千曲川源流に運ばれ、さらに船運により日本海を経て能登に運ばれたと推定されている。鎌倉時代にも、山や川を利用した物流ネットワークが存在したのである。
 これら山のルートは、後述する修験者(山伏)・木地師・狩猟民などによって日常的に歩かれており、南北朝の内乱では、修験者がもたらした情報が重要な役割を果たしたといわれている。
 戦闘において重要な役割を果たす武器の原料は鉄である。日本古来の製鉄法は、砂鉄を木炭によって製鉄するタタラ製鉄であった。秩父市と飯能市の境界に、タタラの頭(地形図上は有間山と表記されている)という標高1213mのピークがあり、この山の東側には、隻眼の鍛工を描いた絵馬など、中世の鍛冶業の痕跡を示す資料や地名がある。『新編武蔵風土記稿』の古大滝村の項に、「土産には山に金・銀・銅・或いは磁石・緑青・寒水石・燧石等を生ずる」とあるように、秩父山地の金属資源も、早くから開発されていたのであろう。
 南北朝時代から室町時代にかけての関東は、断続的に続く内乱・抗争の時代だった。関東を支配したのは、足利一族によって世襲された鎌倉公方(鎌倉公方滅亡後は執事の関東管領上杉氏)、及び在地の豪族たちだった。党を結んだ秩父の武士たちは、時に応じていずれかに加勢して、戦いに参加した。
 武蔵国は関東管領の直轄地だったが、関東管領が分裂・没落した後は、戦国の動乱が続いた。上杉氏の家臣だった長尾景春が鉢形城を拠点とするに至り、一時期は秩父地方をも支配したが、1478年に太田道灌によって鉢形城が落ち、さらに道灌が没すると関東は、小田原を根拠地とする後北条氏によって蚕食されるようになった。秩父地方は、北条早雲の曾孫にあたる氏邦が鉢形城に入ったころから後北条の支配下に入った。
 後北条氏の支配域に侵入を繰り返したのは、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄である。なかでも信玄は騎馬部隊を率いて、信州佐久地方から上州神流川筋を経て上武山地を越え、たびたび秩父に攻め込んだ。信玄の手のものはまた、甲斐との国境にあたる雁坂峠を越えて秩父に入り、入川支流の金山沢・股ノ沢・真ノ沢など、荒川源流域で金の採掘に携わったらしい。荒川源流には、金山沢と称する沢がいくつもあり、これらは、戦国時代に金属の採掘が行われた場所を示しているものと思われる。文政年間(19世紀初め)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、金の採掘がさかんだったころの坑口跡が83ヶ所あり、かつて股ノ沢には「千軒屋敷」と称されるほどににぎわっていたと記されており、栃本集落には股ノ沢千軒屋敷から移設された「千軒地蔵」が伝わっている。
 いずれの戦国大名も、鉱産資源の開発だけでなく、支配地域の産業の振興につとめた。後北条氏支配下の秩父にも、炭焼きの保護、上武山地への伐採禁止や植林命令などが残されている。
 秩父盆地周辺には、穏やかな山容の里山が多いが、登ってみると斜面は意外に急峻で、岩場も多い。戦国時代に、これらの里山には、数多くの砦や山城が、戦国時代の武士たちによって築かれた。その多くは鉢形城の支城であり、番所・見張り場所として機能した。秩父でも小さな合戦が行われたことから、それに由来すると思われる地名が秩父地方の各所に残っており、これらの古城趾を訪ねて歩くハイキングも楽しい。
 鉢形城が豊臣秀吉の軍によって1590年に落城したあと、後北条氏に従っていた秩父の支城群も秀吉軍に降伏した。その後秩父地方は、秀吉から関東一円を与えられた徳川氏に支配されることとなった。戦乱の時代は終わったが、丹党・児玉党以来、武力を持って数々の戦いにかかわってきた秩父の人々は、武士であることを否定され、形としては「農民」の身分に固定されることになった。
 秩父地方には、後北条氏の旧臣だったと自称する家が多いが、武田氏の残した文物も少なくない。栃本関所(後述)の関守だった大村家は武田氏のもと家臣だったし、甲源一刀流剣術の祖である逸見家も武田氏と同族だといわれている。さらに小鹿野町飯田の光源院のように、甲州に本山を持つ寺院も数ヶ所に及ぶ。  鎌倉・室町・戦国時代の奥秩父もまた、このように生活者や戦う人々、信仰する人々の行き来が絶えず、人通りの多い山域だったのである。

6 秩父の山と信仰の道

 (1) 修験道の広がり

 毎日の暮らしや農業に必要な水をもたらす川は、山から流れてくる。従って、古代人にとって山とは、農業・狩猟・自然物採取など、自分たちの生活を保障してくれる存在であり、感謝・畏怖の対象だった。また、草木を加工して日用品を作り出す技術、鉱物を利用する技術、草木を薬や食用として利用する知識などを持つ山暮らしの人々は、里に定住する人々にとっては畏敬すべき存在だった。
 平安時代以降、最澄が伝えた天台宗と、空海が伝えた真言宗は、山岳での修行を重視した。これら仏教の概念を部分的に取り入れ、自然を相手とした山岳での修行によって、悪鬼を調伏(呪い抑える)したり、妖怪を使役するなどの超能力を身につけることができるとする考え方が修験道であり、その行者が修験者である。
 修験道は、現世利益を求める貴族や天皇一族からも信仰された。平安時代には、比叡山・高野山・吉野・熊野などにおいて数多くの修験者が修行に励み、儀式や法理も体系化されていった。
 なかでも紀州熊野はこの世の浄土だと見なされ、平安末期には白河院・鳥羽院ら権力者が何度も参詣している。鎌倉時代になると、地方の武士たちが熊野を参詣するようになり、さらに室町時代から戦国時代にかけては「蟻の熊野参り」といわれるほどに、一般庶民をも集めるようになった。
 畿内の動きに合わせて、地方でも修験道の霊場(修行や参詣の場所)が作られるようになった。地方霊場は、主たるものだけでも白山、立山、富士山、箱根山、日光男体山、出羽羽黒山、伯耆大山、石鎚山、英彦山など、日本の名だたる名山が目白押しである。
 本大会の会場である三峰山や両神山もまた、修験の山だった。現在の三峰神社は観音院と称された修験寺院で、三峰山とは雲取山・妙法ヶ岳・白岩山の三山をさす。観音院は南北朝期に、新田義貞の子・新田義興をかくまった咎で、初代鎌倉公方だった足利基氏により焼き討ちにあっているから、そのころ既に、かなりの規模を持つ修験寺院だったはずである。
 ところで、熊野には大雲取山(966m)や妙法山(750m)があり、本大会の山域に属する山名も、もとは熊野修験の道(熊野古道)近くに実在したものを移入したと考えられている。それだけでなく、一昨年の高校総体山岳競技の会場だった大峰山脈は今なお修験の根本道場だが、本大会白泰山コース上にも、大峰という三角点峰がある。秩父山地の西の横綱というべき金峰山は、吉野の金峰山から蔵王権現を勧請したところから名づけられている。さらに、本大会の会場である名山・両神山も修験の山なのである。

 (2) 暮らしの中の修験道

 江戸時代になると幕府は、修験道法度(1613年)によって修験者を統制するようになった。その結果、修験寺院は京都・醍醐の三宝院を頂点とする当山派、京都・聖護院を頂点とする本山派、日光輪王寺に直属する羽黒派のいずれかに所属することになった。『新編武蔵風土記稿』によれば、秩父地方における修験寺院は、本山派53、当山派5、羽黒派3の計61か寺を数えている。ここに記された以外にも、小さな堂宇は無数に存在していたから、修験信仰が人々の暮らしの中にしっかり根づいていたことがわかる。
 修験者は、鎮守を始めとする村の小祠の祭礼や各種日待(=宗教的な会合)でさまざまな儀礼を担当した。また、病気や災厄の原因だと考えられた邪神邪霊を、自身の霊力によって退散させたり、不動明王に祈願して退散させたりした。
 両神山の代表的な修験寺院は、日向大谷集落の観蔵院(現在の両神神社・当山派)と浦島集落の金剛院(現在の御嶽神社・本山派)、および尾ノ内集落の竜頭神社であった。これらはいずれも、山麓の里宮から両神山に至る登拝路をもち、行者や信者が修行・登山できるようになっていた。
 浦島金剛院の僧、順明行者(?−1838)は、普寛行者の弟子であった。普寛行者(1721-1801)は秩父郡大滝村出身。木曽御嶽山の著名な行者で、1792年に御嶽山の王滝口登山道を開き、御嶽山登拝を大衆化させた人である。その関係か両神山には、普寛行者・覚明行者(黒沢口・小坂口登山道を開いた)・一心行者(信州上田の人で普寛行者の弟子)らの石像や清滝・八海山など、木曽御嶽山から移植された地名が多い。
 普寛行者は秩父に戻ることなく没したが、落合集落にあった彼の実家近くには普寛神社が祀られており、その裏山は御岳山と呼ばれ、山頂にはやはり御岳神社が祀られている。
 三峰山・両神山に共通しているのは、眷属(本尊や祭神のけらい)として狛犬ではなく、山犬(お狗さま)をまつっている点である。三峰神社や両神神社を訪れてみれば、山犬とはニホンオオカミのことだということがわかる。関東地方や阿武隈山地の一部には、眷属として山犬を信仰する神社が少なくない。山がちの集落では、鹿や猪などの野生動物による田畑への被害が多かった。獣害に苦しむ人々にとって、害獣の天敵であるニホンオオカミは、神仏の使いとも言える益獣だったのである。
 本大会における両神山コースは、観蔵院の位置する日向大谷集落からの表参道であり、路傍には、至るところに修験遺跡が残っている。大会参加に際しては、かつて修験の山として殷賑を極めていた歴史に思いを馳せ、峻険な山のたたずまいをじっくり味わってほしい。

 (3) 札所三十四ヶ所

 秩父地方の寺院の正確な由来ははっきりしていないが、秩父に近い埼玉県比企郡都幾川村の慈光寺は平安時代に創建された可能性が高いといわれる。従って、秩父地方の仏教信仰も、平安時代ごろから始まったものと思われる。
 有力者の帰依を得ることができれば、立派な堂宇を建てることもできただろうが、地方においても権力の栄枯盛衰は激しく、有力者に依存した寺院は、権力と運命をともにせざるを得ない。
 一方、一般民衆も人間である以上、さまざまな悩みや苦しみから逃れ平穏に暮らしたいと願うから、現世の利益をもたらすとされる観世音菩薩(観音)や薬師如来、極楽浄土への転生を保障するとされる阿弥陀如来への信仰が庶民の中へも広がっていた。やがて小規模な仏教堂宇も建てられ、仏教もまた、修験道と部分的に融合しつつ、地域に根づいていった。
 鎌倉時代以降、西国三十三ヶ所観音霊場・板東三十三国観音霊場が形成された。それを模倣して、秩父地方で秩父三十三ヶ所の観音霊場が形成されたのは、室町時代ころらしい。当初は必ずしも固定されていなかった三十三ヶ所はその後、一ヶ寺を加えて三十四ヶ所となり、番付を含めて、現在のものに固定されていった。
 札所はすべて、秩父地方の盆地か里山に位置している。札所一番四万部寺は秩父市栃谷に所在し、三十四番水潜寺は秩父郡皆野町下日野沢にある。巡礼者の多くは川越方面から札所一番に近い粥仁田峠を越えて秩父に入り、村と村とを結ぶ小さな峠を越えつつ観音参りを続けたのである。
 札所を巡る信仰の道は秩父の民の生活の道でもあった。その中には、今なお使われている道も多く、苔むした石仏を愛でながら峠を越えるハイキングを楽しむ人も多い。

7 秩父往還

 秩父地方は、無数の峠によって武蔵・上野・信濃・甲斐などと結ばれていた。
 江戸時代に、江戸から秩父に至る往還(主要道)には、中山道熊谷宿から寄居を通る荒川沿いのルート(熊谷通り)、川越から皆野町の粥仁田峠を越えて入るルート(川越通り)、飯能から正丸峠を越えるルート(吾野通り)の三つのルートがあった。
 秩父から甲斐へ出るには雁坂峠、信濃へ出るには十文字峠が使われた。江戸時代は、「入り鉄砲・出女」(江戸に住む大名の妻が帰国することと江戸への鉄砲の流入を阻止すること)などを目的に、自由な旅行が規制されていた時代だった。中山道と甲州街道のバイパスにあたる雁坂峠道と、中山道の裏街道にあたる十文字峠道は、秩父市大滝の栃本集落の先で分岐する。これらの街道を通行する人々は、麻生集落にあった加番所(関所の事務を補佐し通行手形に押印する)と栃本集落にあった栃本関所で検問を受けねばならなかった。
 雁坂峠道は、戦国時代に武田信玄の手のものが、秩父市大滝の鉱産資源を採掘するのに頻繁に行き交った(先述)歴史を持つ。江戸時代になると、甲斐善光寺や身延山への参詣や、生活物資を甲斐で売買するために出る人々、また甲斐から三峰山への参詣のために入ってくる人々が多数、通行した。
 十文字峠道もまた、信仰と生活・交易の道としてにぎわった。雁坂峠同様、信濃善光寺や秩父三峰山は相互に多くの参詣者が行き来したし、米のとれない秩父に、佐久の米がこの峠を越えて運ばれた。本大会の会場である白泰山への道は、昔からの十文字峠道である。コースの途中におかれている一里観音、二里観音の石仏は、栃本から長野県南佐久郡川上村梓山に至るまで、約一里ごとに建てられている六基の観音像の一部であり、往古より山を越える旅人を見守ってきたのである。

8 山里の暮らし

 江戸時代になると、文書による記録も多く残されており、奥秩父の民衆の暮らしのようすを知ることができる。
 秩父や小鹿野の盆地周辺では、さほど多くはないが水田・乾田も開かれ、畑作と養蚕を中心とする農業が営まれていた。しかし、けわしい山岳地帯に属する秩父市大滝や同・中津川、同・三峰など、奥秩父の村では養蚕もさほどさかんではなく、盆地周辺のような生活は不可能だった。ここ奥秩父では水田は皆無な上、畑の8割は「サス」と呼ばれる焼畑だった。焼畑とは、一定面積の山を焼き払った跡地で数年間、無肥料で畑作を行い、養分が乏しくなると耕作をやめ、再び森林に戻して次回の焼畑までに地力の回復をはかるというもので、日本の山村ではこの時代、普通におこなわれてきた農法である。自宅から1〜2里も離れた山の尾根や中腹に焼畑を開いたときには、春から初冬までは畑のそばに小屋を建てて住み、猪・鹿などの害獣を追う暮らしをしなければならなかった。農作物としては、粟・ヒエ・大豆・そば・たばこ・インゲン豆などがあげられている。
 戦国時代から江戸時代の初頭にかけて、戦乱や大規模な城郭の建築が続いたため、日本各地の山林は荒廃しつつあった。山の荒廃は豪雨のあとの洪水を招き、幕府の経済的基盤であった平野部を破滅させる。そのため幕府は、17世紀半ば以来、幕領山林の伐採を禁じるとともに、上流域の荒廃地に植林を行ったり、川筋での耕作や焼畑を禁止するようになった。秩父地方では、18世紀半ばに、荒れ畑に自生した雑木の伐採さえも禁じる触れが出されたほどだった。
 奥秩父の山は「御林山」とよばれ、一般の人々がそこに立ち入って生活に必要なものを採取することは一切禁じられた。これは、幕府による徹底した山林保護政策の一環である。しかし、集落から一里半の範囲は「稼山」と呼ばれ、さほど多くない税と引き替えに樹木の伐採など、村人の利用が許可された。人々はここで樹木の伐採・各種木製品の製作・製炭などを行って現金収入を得た。
 本大会霧藻ヶ峰コースの登山口近くは、「三峰神領」と呼ばれた旧三峰村に属する。『新編武蔵風土記稿』には、この村の産物として、インゲン豆、大根・サイシン・オウレン・イワタケ・シイタケ・シシタケ・葛・カタクリ・栃・栗・ツクバネ・スギ・サワラ・エンジュ・シャクナゲ・アカマツ・ヤシャビシャクがあげられている。この中には、農産物だけでなく、林産物や材木・薬草も含まれている。稼山ではこれ以外にも、先に述べた鉱物資源の採掘や狩猟・イワナ獲り等、山野の恵みを享受することができたのである。
 奥秩父山岳地帯というと、傾斜の激しい痩せた畑でで営まれる生産性の低い農業とか、生活用水を得る苦労、獣害の激しさ、気候条件の厳しさなどから、文化の果つる貧困な山村を想像されるかもしれない。そういう側面があったことは事実だが、天保年間に大滝を訪れた江戸幕府の役人が「大金が出入りして融通よく、はなはだ豊かである」という印象を残している。ここ奥秩父にも、平野部と同じように、貧しい人々がたくさんいた反面、豊かな人々も存在したのである。

9 開港から秩父事件へ

 秩父盆地周辺では、江戸時代半ばから養蚕業がさかんになった。江戸時代の蚕の掃立て(孵化)は年間一回だけで、おもに女性の手によって自家製糸され、さらに絹織物に織られた。
 絹は、大宮郷(現在の秩父市中心部)などで立った絹市で売られた。秩父の人々にとって最も重要な市は、霜月上旬に行われる大宮妙見社(現在の秩父神社)の大祭(現在の秩父夜祭)を期して立つ、絹の大市だった。この大市に、諸国の絹商人をいかに多く集めることができるかが、秩父の人々のその年の収入の多寡を左右した。華やかな屋台や笠鉾、勇壮な秩父屋台囃子のとどろきには、絹にかけた秩父の人々の祈りが込められているのである。本大会開会式で演奏される秩父屋台囃子を聞くときには、そのような山国の歴史を感じ取ってほしい。
 1859年に鎖国が終わり、外国との貿易が始まると、状況は一変した。山国秩父は、突如として世界的な市場経済に組み込まれてしまったのである。当時生糸の主産地だったフランスで蚕の微粒子病が流行していたこともあって、日本の生糸は、「世界の工場」ともいわれたイギリスに輸出されるようになった。  秩父の絹織物業は、原料である生糸不足のため一気に不況となり、代わって製糸業が隆盛をきわめることになった。幕末から明治初年にかけて長野・群馬・栃木・埼玉・福島など東日本の山間部は爆発的な生糸景気に沸いたが、ここ秩父も例外ではなく、現在は雑木林や植林におおわれている里山の多くに桑が植えられ、民家には、高窓つきの蚕室が備えられるようになった。また、生きたコナラやクヌギでしか飼育できない、高価な天蚕(ヤママユ)の飼育に挑戦する人々もあらわれた。
 開会式の行われる秩父市民会館のすぐ前に、小さな丘が見える。ここは羊山と呼ばれ、現在は公園になっているが、1884年の夏に、田代栄助という人物が、ここで天蚕飼育に取り組んでいた。田代は、この年10月に秩父で起きた民衆の武装蜂起、秩父事件で最高指導者をつとめ、事件後捕縛されて死刑になった。  1882年ごろから、政府によるデフレ誘導政策によって、生糸など農産物の価格が暴落し、養蚕地帯では、人々の暮らしは破滅に瀕していた。そうした中で自由党員によって組織された人々が「秩父困民党」を名乗り、専制政府打倒をめざして武装蜂起したのである。秩父地方は困民党によって制圧され、秩父郡役所には革命本部がおかれた。
 政府は警察だけでなく、陸軍の東京・高崎鎮台兵、憲兵隊を動員して秩父地方を包囲し、事件の鎮圧をはかった。困民党軍は、熊谷・川越方面への出口にあたる三沢村(現在皆野町)の粥仁田峠で警官隊と衝突し、本庄方面への出口にあたる金屋村(現在児玉町)で東京鎮台兵と銃撃戦の末敗北したが、軍を立て直して藤倉村(現在小鹿野町)の屋久峠を越えて群馬県に逃れ、さらに十石峠を越えて長野県佐久地方に進出した。  困民党軍が壊滅したのは11月9日、東馬流(現在小海町)における高崎鎮台兵との銃撃戦及び海ノ口(現在南牧村)での銃撃戦においてである。
 ゲリラ戦や組織化の過程では、城峰山を主峰とする上武山地の山々が主舞台となった。ここには、秩父と群馬県の各集落を結ぶ、多くの峠道がある。平地では陸軍の圧倒的な火力に敗北したが、網の目のように張りめぐらされた峠道では、困民党が自在なゲリラ戦によって、警官隊を翻弄した。この中には廃道も多いが、現在なお使われている道もある。
 秩父事件の舞台は、ここ秩父の里山からじつに長野県八ヶ岳山麓までを含む、広大な山岳地帯なのであるが、秩父事件の話はここで終わるわけではない。  蜂起の際の最高指導者田代栄助は、秩父市を見下ろす武甲山に潜伏の後とらえられた。長野への転戦の指導者、北相木村の菊池貫平は、故郷の名山である御座山に潜伏の後、甲府へ逃れた。秩父事件の発起人のひとり落合寅市は、いったんは高知県に逃亡した後、雁坂峠を越えて秩父に戻ってきた。
 明治時代の秩父地方でなぜこのような革命思想が胚胎したのかについては、明確な結論をみていない。秩父は、周囲を全て山で囲まれており、一見すると他の地方と隔絶しているようにも見える。しかし、これらの山岳には無数の峠がある。今まで述べてきたように、江戸時代以前から、峠の向こうとの行き来が続いてきた。山は、人やものや思想を遮断する障壁である一方、峠を通してそれら文物を移入するための通路でもある。自由民権思想が入ってきたのも、峠の向こうからだった。
 峠を越えてもたらされた思想が秩父という盆地世界で発酵し、先鋭化したのが秩父事件だったといえるだろう。

10 近代登山と奥秩父

 近代に入っても、修験者や木地師・炭焼き人などは江戸時代と同じように、山での暮らしを続けていた。江戸時代の「御林山」は国有林や村有林、民有林、東京大学演習林など、その後の所有形態はさまざまながら、人家に近いところから大規模な伐採も始まった。
 そういう中で、明治以降、信仰や生活を目的としない登山者が、奥秩父を訪れるようになった。日本には、スポーツとしての登山では、困難な岩壁の登攀や積雪期登山が注目されるが、春夏秋冬の四季折々に大きく装いを変える日本の山岳を楽しむ旅の一環としての登山も、多くの人々を惹きつけるようになった。  奥秩父には、金峰山や国師ヶ岳などをのぞき、いわゆるアルペン的風貌の山は多くない。その中で、奥秩父の魅力を発見し、みごとに表現した著名な登山者に、木暮理太郎(1874-1944)、田部重治(1884-1972)、原全教(1900-?)らがいる。彼らの奥秩父行は、典型的な山旅型の登山だった。
 木暮は、東京市史料編纂室に勤めながら奥秩父を始めとして、各地の山を歩いた先駆的な登山者である。彼が初めて奥秩父を訪れたのは1896(明治29)年の金峰山であったが、その後田部重治(後述)と出会い、田部と共にたびたび、奥秩父を歩いている。彼によると、このころの秩父鉄道は波久礼が終点だったので、そこから午後9時から徹夜で栃本へ歩くなどという強行軍のアプローチを余儀なくされたという。木暮は、奥秩父の特徴について、次のように語っている。
「秩父の奥山に一たび足を踏み入れた人は、誰でも秩父の特色は深林と渓谷にあることを心付かない者はないであろう。それほど秩父ではこの二者が密接な関係を有している。深林あるが為に渓谷はいよいよ美しく、渓谷に由りて深林はますますその奥深さを増してゆくので、二者いずれか一を欠いても、秩父の特色は失われなければならぬ」(一部漢字をひらがなに改めた)
 木暮は、奥秩父の重厚な森を森林といわずにあえて深林と呼び、森から流れ出る渓流の美しさとともに、賛美している。田部重治もまた、木暮と同様、奥秩父の森と渓に惹かれた登山者だった。  田部はイギリス文学者で、北アルプスや奥秩父を中心とする日本各地の山に足跡を残した。彼の初めての奥秩父行は、1910(明治43年)5月、木暮理太郎と同行の雲取山であった。このときの彼らのいでたちは、「和服に鳥打ち帽、股引に脚はん、わらじ、着ござ、一方の肩にかけるかばん、かばんには各自の小さな鍋とシャツ」というものだった。行程は、中央線の終点だった浅川町(現在の高尾)で下車して小仏峠へ登り、一晩ビバークして三頭山を越えて小菅村で泊。3日目に雲取山を往復したのち青梅線終点だった青梅まで歩いて泊。4日目に帰宅というハードなものだった。
 その後も木暮と共に充実した奥秩父の山旅を重ねた彼は、奥秩父山塊の本質を次のように語っている。 「秩父の山の美は深林と渓谷とのそれである。信越の山々の超越的な、高邁な姿は、秩父の山の深林の幽暗と渓流の迂曲と共に私を引きつけた。私は秩父の山において一種神秘的なまた一方伝説的なものを感ずると共に、また、宇宙存在以来その間にこもって離れない山の魂という風なものに触れたような感じがした」(『新編山と渓谷』)
 原全教は、大蔵省勤務。上の二人よりやや遅れて、1925(大正15)年に初めて奥秩父を訪れた。彼の初めての奥秩父行は、中央線初鹿野駅から入山し、大菩薩峠〜泉水谷〜笠取山・雁峠〜雁坂峠〜広瀬〜雁坂峠〜栃本〜三峰神社〜雲取山〜青梅と、じつに9日間の山旅であった。原の山歩きの特徴は、第一にほとんどが単独行である点、第二に奥秩父の源流域のほとんどを沢通しで遡行している点、第三に宿泊やルート教示などで世話になった山里の人々と親密に交際したり、山中で出会ったさまざまな人々と会話しそれを丹念に記録している。原の文章は、田部重治のような名文とはいえないかも知れないが、登山道はもちろん、滝やゴルジュの高巻きルートに至るまで細かく記録しており、のちの登山者にとって大変参考になる。また彼は、奥秩父の渓流の核心部の写真を残している。古背広に草鞋履き、油紙をかぶっての露営という装備で写真機を携帯するには、相当の困難を伴ったと思われるが、彼の撮影した数々の写真は、伐採が始まる前の美しかった秩父の渓の面影を残す、貴重な資料である。
 このころ以降、奥秩父にも多くの登山者が入山するようになった。戦前の奥秩父には、旧来の峠道以外に、営林署の巡視道がつけられており、雲取山や甲武信岳。雁坂峠には、昭和初期に山小屋が建設された。それ以外にも、雨露をしのぐことのできる小屋は、各所に存在した。案内人(ガイド)をする人々も多く、両神山や大滝村には案内人組合も組織されていった。
 昭和に入ってから奥秩父では、民有林・国有林・東大演習林を問わず、森林伐採が進行した。ことに戦後から1960年代までは、尾根をまたいで設置された架線や、渓流に沿って敷設された森林軌道によって、伐採された木がどんどん搬出された。伐採あとの一部にカラマツが植林された区域もあるが、多くは伐られたまま放置された。
 1970年ころに伐れるところはほぼ伐り尽くして、奥秩父の森林伐採は終息していった。木暮・田部・原らが愛した奥秩父の深い森ははげ山と化し、苔むした黒い岩を滑り流れた豊かな渓流も、崩壊した土砂に埋まって平凡な流れと化してしまった。
 たとえば、本大会の霧藻ヶ峰コースで大血川林道を歩く。三峰山の山腹を削って作られたこの林道工事によって、どれだけの土砂が眼下の渓(大血川支流向沢)に流れ込んだか、自分の目で確かめてほしい。
 だが、奥秩父が全て伐られてしまったわけではない。
 奥秩父の森林のかなりの部分が現在、秩父山地森林生物遺伝資源保存林に指定されており、また十文字峠周辺の亜高山帯針葉樹林は、十文字峠植物群落保護林に指定されている。さらに野生動植物の移動経路確保のための「秩父山地緑の回廊」も設定されており、伐採や開発には歯止めがかかっている。
 奥秩父には今なお、出色の渓畔林や針葉樹林、落葉広葉樹林などの原生林が残されており、健在な渓も多い。今大会の期間中に、このような森や渓にふれることのできる機会は多くないが、原始・古代から近代に至るまで、人々を惹きつけてやまなかった奥秩父の山に、いつかまた訪れて、静かなワンダリングを楽しんでほしい。

参考文献

荒川水系渓流保存会『秩父イワナ』(私家版)
宮脇昭『鎮守の森』(新潮文庫)
『荒川総合調査報告書 人文1』(埼玉県)
秩父市教育委員会『秩父の伝説』(秩父市教育委員会)
網野善彦『東と西の語る日本史』(そしえて)
埼玉新聞社編『秩父地方史研究必携』(埼玉新聞社)
井上要『秩父丹党考』(埼玉新聞社)
秩父事件研究顕彰協議会『秩父事件』(新日本出版社)
網野善彦『「日本」とは何か』(講談社)
鈴野藤夫『山釣り談義』(文一総合出版)
河野善太郎『秩父三十四札所考』(埼玉新聞社)
宮家準『修験道』(教育社歴史新書)
小山靖憲『熊野古道』(岩波新書)
谷有二『山の名前で読み解く日本史』(青春新書)
りょうかみ双書3『両神山』(両神村)
飯野頼治『秩父往還いまむかし』(さきたま出版会)
大田巌『秩父往還』(新人物往来社)
飯野頼治『山村と峠道』(エンタプライズ)
飯野頼治『両神山』(実業之日本社)
千島壽監修『やさしいみんなの秩父学』(さきたま出版会)
コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたのか』(築地書館)
『新編武蔵風土記稿』(雄山閣)
田部重治『わが山旅五十年』(平凡社ライブラリ)
田部重治『新編山と渓谷』(岩波文庫)
木暮理太郎『山の憶い出(上下)』(平凡社ライブラリ)
原全教『奥秩父回帰』(河出書房新社)
原全教『奥秩父(正続)』(木耳社)

本稿はもともと、2008年度高校総体山岳大会パンフレット用に執筆したものであるが、刊行されたものには一部、埼玉県高体連による不本意な改変がなされている。オリジナルな論考はこちらである。

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