峰岸純夫『享徳の乱』

 室町時代後半の関東の内乱状況を概説している。

 足利氏が京都に幕府を設けたことにより、関東に権力の空白状況が生まれた。
 教科書には、足利氏が腹心を鎌倉公方として送り込み、関東を抑えた如く書かれているが、実際のところ鎌倉公方は関東における独自の権力として機能し、かつ足利本家とは距離をおき、隙あらば謀反する機会を窺っていた。

 さらに鎌倉公方の権力自体が一枚岩でなく、関東管領の上杉氏と鎌倉公方足利氏は、ほぼ終始、対立関係にあり、足利氏・上杉氏はともに分裂して、内部対立を抱えていた。

 したがって享徳の乱における対立点は特に存在せず、すべての武将が自領の存続と他領の切り取りを意図して、いつ果てるともなき、理念なき争闘と離合集散を続けていたのである。
 この時代のあとに現れる戦国大名は、このような争いを制して地域小権力を樹立したのである。

 戦国大名は、すぐれた軍略家を外部から導入するとともに、自領に蟠踞する数多の地侍を組織化して軍団を形成した。
 戦国大名の武力を支えていたのは、在地の大小の地侍だった。

 これら在地の地侍たちについては、よくわかっていない。
 彼らがどのような暮らしをしていたのか。彼らの名前・家族・配下の足軽たちとの関係などがわかれば、面白い。

 享徳の乱の末期に、長尾景春が秩父を駆け抜けた。
 理念なき戦いに明け暮れた彼の人生は、結果だけ見れば笑止かもしれないが、彼に運と実力があったなら、北条早雲になり得た可能性も十分あったはずだ。

(ISBN978-4-06-258664-1 C0321 \1550E 2017,10 講談社選書 2019,3,5 読了)

月別 アーカイブ