井上要『秩父丹党考』

 鎌倉時代から南北朝期ころにかけて、秩父地方に群居した丹党に関する論考。
 この時代の秩父のようすを知ることができる好著である。

 秩父の武士団は秩父平氏(秩父氏)から姿をあらわす。
 秩父氏の惣領は畠山に移って畠山氏となり、その支族は河越・江戸など、関東平野に蟠踞して、関東武士の中核を担った。
 石橋山の戦いに敗れた源頼朝に加勢して源平の形勢を逆転させる原動力となったのは、彼ら関東武士たちだった。

 秩父では、丹党・児玉党などの小グループに属する武士たちが、盆地の要所で小天地を作っていたと思われる。
 彼らの出自は不明だが、おそらく武装し始めた有力な名主層ではなかったかと思われる。

 宇治川の戦いで畠山重忠以下丹党五百騎がひしひしとクツワを並べたと『平家物語』にあるように、秩父在地の武士たちは、畠山氏の手勢に組み込まれ、治承の騒乱を戦った。

 鎌倉幕府成立後ほどなく畠山重忠は頼朝に肘されて滅亡し、配下の在地武士たちは御家人として、幕府に直接臣従する立場となる。
 この時期には、騎馬が通行可能な街道が、秩父から鎌倉へと通っていただろう。

 秩父武士の多くが所属したのが、丹党だった。
 秩父の丹党は、中村グループ・白鳥グループ・薄グループに分立していたが、中心的存在だったのは中村グループだった。
 中村氏は吾妻鏡その他の史料に登場し、鎌倉時代を通じて御家人として活動しているばかりでなく、秩父神社の造営に際しても指導的に動いている。
 とはいえ中村氏は、秩父の丹党を統合する盟主に成長することはできず、南北朝期前後に衰退した。

 秩父の在地武士たちはその後、後北条氏の鉢形入りとともに北条氏の家臣団に組み込まれていった。

 本書は秩父の神社分布から中世秩父の様相を探ろうとしている。
 神社統合や社名変更などにより、古い時代の秩父の神社分布を探るのは困難だろうが、文献の乏しい中世の地方史を、神社や寺院の関係を通して組み立てるという視点は有効ではないかと思う。

(ISBN4-87889-121-1 C0021 P1500E 1991,8 埼玉新聞社 2018,9,13 再読)