山田ハルエ『山の女』

 『山と猟師と焼畑の谷』で、山田亀太郎氏は猟や釣りに終始した人生を語った。

 少し考えればわかるように、猟や釣りだけで、暮らしは完結できない。
 人が暮らしていくためには、食べるものを作らねばならないし、食べ物を食べられるように調整しなければならないし、子どもを育てなければならない。
 そもそも暮らしとは、食べ物を作って調整し、着るものを作り、子どもを育てることであって、そのような暮らしを前提にしなければ、狩りも釣りもないのである。

 山田亀太郎の人生は、山田ハルエが暮らしをほぼ全て引き受けてきたことによって可能だった。

 人の暮らしはまず、食べていくことから始まる。
 今も昔もそれは変わらないのだが、多くの現代人はまず、金を得るところから始まると誤解している。

 焼畑は想像を絶する労苦を要する農作業であり、後半生の開拓生活もそれと同じく労苦の時代だった。
 強いて言うなら、秋山郷には鹿と猪がいなかったように見え、それは奥秩父に比べ好条件と言えなくもない。
 山を切り開いて根株を除き、石を積んで田んぼを築くという開拓によって、焼畑より安定的な食糧自給が可能になったというが、その労苦は想像を超える。
 とはいえ、それが人が暮らすということなのである。

 食べ物作りに関して言えば、食べ物を食べられるようにする作業について、随所に記されている。
 ここは、現代人が全く知らない部分である。

 例えばコメであれば、熟した稲を刈って脱穀し、もみを除き(脱ぷ)、精白することにより可食となる。
 粟や稗の場合も同じ。
 ここでは、キビやタカキビは作らなかったようだ。

 脱ぷと精白は、じつに辛気臭い作業なのだが、これなしに穀物を食べることはできない。
 穀物の脱ぷ・精白、水汲みなどは、人が生きていく上で不可欠なのに、現代人にとってまったく存在しない作業である。
 それは、とてもおかしなことなのだが、枯渇しきった現代人の想像力では、思い至ることはないだろう。

 こう言ってはなんだが、亀太郎の語りはもちろん興味深いのだが、秋山郷で生きるとはどういうことかは、ハルエの話を聞かねばわからない。
 歴史もまた、そうなのだ。
 水汲み・精穀作業をだれが行っていたかを見ないで、民衆の歴史など、あったものではない。

(1992,5 白日社 2018,7,20 読了)