松本清張『昭和史発掘8』

 相沢事件後の公判と北一輝・西田税の思想について描いている。

 陸軍省庁舎で斬殺された永田鉄山(少将)は、下手人の相沢三郎(中佐)からすれば上位にあたる。
 これは単なる殺人ではなく、上官への暴行・殺害事件だった。

 しかし相沢は、永田を殺害したあとも、逮捕・取り調べ・裁判・処刑の対象になると思っていなかったらしい。
 裁判の過程で彼は、一身を捨てて大義に生きるというでもなく、咎めを受けること自体を想定していなかったように述べている。

 驚くべきことだが、陸軍のいわゆる皇道派軍人には、相沢を称揚する空気がほとんどで、永田殺害後も即刻逮捕されたわけでもなかった。
 裁判の中も相沢は終始、昂然とした態度で、裁判長にさえも食って掛かるような言動がみられる。

 満州における統帥権無視の行動といい、はっきり言って、この時代の帝国陸軍は、軍隊としての体裁さえ、なしていない。

 本書後半は、二・二六事件で処刑された北・西田の思想を詳しく紹介している。

 西田は体系だった著作を残しておらず、北のエピゴーネン的存在だった。
 北の陸軍皇道派将校たちのバイブルが、北の『日本改造法案大綱』であり、相沢三郎もこの本を所有していた。

 北は、蓑田胸喜や平泉澄のように「信仰」に近い右翼思想ではなく、戒厳令の発動・特権層の排除・軍人による政治を実現することによって、財閥や特権層による民衆搾取を廃止し、恐慌下に苦しむ都市・農村を立て直すという展望を示していた。
 彼の「昭和維新」論は、あながち空想の産物でもなく、「日本」の現実を一定程度踏まえた上で、その解決の方向を示そうとしていた。

 天皇を中心とする国体論と矛盾せず、特権を否定する点ではデモクラティックな一面も有し、現実の諸矛盾にも目配りされていた点が、若い将校・下士官に受け入れられたのだろう。

 ところが、北は三井から将校・下士官の動向に関する情報と引き換えに、多額の金銭を得ていた。
 情報は、将校グループから西田へ、そして西田から北を通じて財閥へと流れ、金銭はその逆に流れていたのだから、北一輝は、思想的な大風呂敷にもかかわらず、単なる右翼ゴロに過ぎなかった。

 二・二六事件の実行に際し、北も西田も、計画にアクセスさせてもらえなかったのは、当然だった。

(1978,10 文春文庫 2017,10,11 読了)