松本清張『昭和史発掘11』

 2月27日の戒厳令施行から29日の叛乱軍崩壊までを描いている。

 叛乱軍リーダーは、首都中枢部を占拠し数名の重臣を殺害したあとの、確たる展望を持っていたわけではなかった。
 彼らの期待は、軍上層部のシンパ連中が自分たちの意を汲んで軍部独裁政権を樹立し、「国家改造」を実現してくれることにあったが、天皇にその気がない以上、それは実現されるはずもなかった。

 天皇の意志ははっきりしていたにもかかわらず、荒木・真崎・本庄らトップグループを含め軍上層部の叛乱軍に近い面々は、叛乱軍の意に沿う形で事態を収拾しようと、策動し続けた。

 真崎について著者は、本人は維新内閣の首班になる気満々だったが、26日早朝の時点で天皇の意向を知り、その後は叛乱軍と無関係を装うことに必死だったと推定している。おそらくそのとおりで、彼は、事件の周辺で踊った「お調子者」に過ぎなかった。
 荒木はともかく、自分に責任が及ばない範囲で、反乱軍の意を汲む発言を続けた。

 川島義之(大将)陸相は、軍内では無派閥と見られていたらしいが、非常事態発生時には、事態を理解することも、方策を考えることもできず、自分の意見を言うことなく一貫して日和見続け、26日には叛乱軍を正当化する告示を出す失態を演じた。

 真崎・荒木の手駒だった香椎浩平(中将)は、叛乱軍と対決する戒厳司令官であるにもかかわらず、26日の陸相告示にある「諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」の「真意」を「行動」に書き換えさせたり、27日の戒厳司令部の会議において反乱軍の精神を咎めるなと発言するなど、事態の終結を遅延させた。

 山下奉文(当時少将)は、事件発生前まで叛乱軍リーダーを煽っていたが、叛乱軍が討伐の対象となるや、彼らに自決を勧めた。

 陸軍上層部で叛乱に対し終始、断固たる姿勢を貫いたのは石原莞爾(当時大佐)だけだった。
 どういう偶然か、彼の行動は昭和天皇の考えと同じだった。
 統帥部の事実上のトップだった杉山元(参謀次長・当時中将)はおおむね、石原の言を用いて発言したから、杉山が、毅然とした対応をとったようにみえる。

 石原をのぞく陸軍上層部に、原則的な対応のとれる人物が存在しなかったことも驚きであるが、昭和天皇の立場は一貫していた。
 事態を収めることができたのはひとえに、昭和天皇が叛乱を、情状を含め一切認めない姿勢があったればだった。

 29日、戒厳軍の行動開始とともに、ビラ・ラジオ・スピーカーなどによる情報戦によってすでに自壊しつつあった叛乱軍は、リーダーたちが下士官兵に帰順を許可し、大きな流血を見ることなく鎮圧された。

 一見すれば明らかに無謀な叛乱だったが、昭和天皇が明確な態度をとらなければ、真崎首班程度までは実現した可能性もなくはなかった。
 叛乱軍リーダーたちは、重臣らの「腐敗」を糾弾したが、彼らを支持しているかに見えた真崎・荒木ら「皇道派」トップは、自らの権力欲のために彼らを利用しようとしたに過ぎず、陸軍の軍政・統帥指導層はことごとく無定見な日和見主義者だった。

 驚くべきは、昭和10年代の「日本」を引っ張っていたのが、このような人々だったことである。
 真崎首班が実現していたら、どうなったか。
 北一輝が考えたような国家社会主義が実現するわけもなく、権力闘争が激しくなるだけだっただろう。
 もっとも、大日本帝国の崩壊は、じっさいの歴史より早まったかもしれない。

(1978,12 文春文庫 2017,10,22 読了)