松本清張『昭和史発掘10』

 二・二六事件勃発当日朝の動きについて、時系列で描きつつ、著者独自の史眼による分析を加えている。

 反乱軍リーダーだった将校たちの命令により、未明から行動が開始され、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊を中心とする兵力が東京の中枢部を占拠し、蔵相・内相・教育総監らを殺害した。
 しかし、その後の展開について、リーダーたちに確たる展望があったわけではなかった。

 原因の一つは、トップリーダーが存在しなかった点だろう。
 事実上のトップは磯部浅一元将校だったようだが、彼の行動にも支離滅裂な部分がある。
 陸軍上層部の例えば、荒木貞夫や真崎甚三郎あたりはトップリーダーに擬せられていたはずだが、彼らは保身以外に何も考えていない「お調子者」に過ぎなかった。

 個々の場面場面における手違いは、戦闘の現場においては珍しくないとして、戦略のないまま武力を発動するなど、その思慮のなさには驚いてしまう。

 一方、事態の展開の鍵を握る陸軍指導部は、毅然とした対応を打ち出すことができなかった。
 部隊による公然たる反乱が首都中枢部で起きているにもかかわらず、それが統帥権否定の犯罪だと認めることさえできなかった。
 真崎は、この日保身のため、反乱軍と軍実力者の間を必至で泳ぎ回り、川島陸相を典型とする無能な軍トップは、判断力を失って右往左往していた。

 一方、昭和天皇はクーデターの本質を、最初の時点で正確に把握していたらしい。
 反乱軍は「昭和維新の詔勅」を渙発し、真崎を首相とする軍部独裁政権を樹立して、北一輝が描いたような「国家改造」を実現しようとしたらしいが、彼らにとって、重臣殺害など支配秩序を否定するクーデターを「暴徒」と呼び天皇が激しく怒っているとは、全くの見込み違いだった。
 このクーデターを早期に収拾させたのは昭和天皇の断固たる意思だった。

 反乱指導者たちは北・西田を含め処刑されたが、彼らを育て泳がせた荒木や真崎は罪に問われなかった。
 反乱という行為は否定されたが、その思想はむしろ持ち上げられた。
 昭和初年の軍人たちが、武力によって政治を正すことは自己犠牲を顧みない立派な行為だと称揚する「勘違い」は、ここでも否定されなかった。

(1978,11 文春文庫 2017,10,19 読了)