半藤一利編『日本のいちばん長い夏』

 1945年7月末から終戦にかけての時期に何が起きていたのか、ありえないほど多彩なメンバーによる大座談会の記録。
 座談会が行われたのは、1963年である。

 ここに集まった人々の多くは、内閣・外交・軍・宮中・戦場・獄中などにおいて、国家と自分を守るために、動いていた。(守るに値する国家だったかどうかは別として)

 興味を惹かれるのはやはり、どのようにして「日本」を終戦に導くかをめぐる動きである。
 天皇・内閣と海軍の大勢は、終戦は必至であり、必ずしも「日本」のメンツの立つ形でなくともやむを得ないと考えていた。
 抵抗していたのは陸軍のほとんどと海軍の一部だった。

 驚くのは、戦争継続派に、先の見通しなどなかったという点である。
 彼らの脳内にしか存在しない「大義」のために、列島と列島民を滅亡へと駆り立てる発想が、ありえないし、許せない。
 終戦後自決した人々もいるが、たいした責任もとらずに戦後を生きた人々も少なくない。

 8月15日に戦争が終わらなければ、どうなっていたか。
 アメリカとの戦争は、「本土決戦」に突入しただろう。
 その場合の犠牲者数は、沖縄戦の比ではなかったはずだ。

 ソ連による北海道上陸は、実際には不可能だったらしいが、時間が経てばそれもあり得た。
 満州や朝鮮における一般人の犠牲は、激増していた。
 トルーマンよりスターリンのほうがはるかに凶悪な人物だったから、想像を絶する事態となっただろう。

 終戦前後の大本営・最高指導部の動きの中で、多くの人から高く評価されているのは、阿南陸相である。
 彼が評価されているのは、阿南でなければ、ポツダム宣言受諾後の陸軍の反乱を抑えることはできなかったという点である。
 反乱へと動き出した陸軍将校に対し彼は、「反乱するなら阿南を斬れ」と一喝したとされている。

 確かに、「終戦の詔勅」を拒否しようとした陸海軍の動きは、反乱にまで至らなかった。
 阿南は、昭和天皇に忠実であろうとした。
 そして昭和天皇は、陸海軍人に対し、耐え難きを耐えよと自ら説得した。

 最後の局面で天皇と陸相の果たした役割は重要だった。
 しかし、いよいよその段階に至るまでの過程で彼らが何を言い、それが戦争にどのような影響を与えてきたかが問われなくてよいということにはならない。

(ISBN978-4-16-660594-1 C0231 \700E 2007,10 文春新書 2017,8,20 読了)