半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』

 敗戦から日本国憲法が国会で可決されるまでの経緯を史実に基づいて描いた本。

 まずは、「日本」がポツダム宣言をどのように受諾したのかをなぞる必要がある。

 「日本」は、ポツダム宣言が天皇の国家統治の大権を否定していないという前提なら受け入れよう、と連合国に伝えた。
 それに対する連合国側の回答は、「日本の政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される」だった。
 つまり、連合国側の回答は、天皇が「日本」の支配者であること、当時の表現で言うなら「国体の維持」を保障してはいない。

 「日本」の支配者にとって、「国体」こそが至高の価値だったから、主として陸軍の将官・将校がそれでは受け入れられない、と反発したのは当然である。
 彼らのそうした反発の裏に、「日本」の「国体」に対する純粋かつ狂信的な信仰があったのは確かだろうが、「国体」あっての彼らの地位・ポストがあったというのも事実である。
 職業軍人たちは、「国体」がなければエラソウにできないし、特権的な生活を維持できなかったという事実は、頭に入れておきたい。

 ともかく、マッカーサーがやってきた8月末以降、「日本」政府・天皇・マッカーサーの三者は、ハードな心理戦を戦うことになる。
 主役は、天皇裕仁とマッカーサーだった。

 マッカーサーにとってもっとも重要なのは、占領と「日本」の「民主化」をスムーズに進めることだった。
 彼がどのような戦略を持って来日したかはわからないが、彼の基本方針を決定づける上で重要なターニングポイントとなったのは、9月27日の裕仁によるマッカーサー訪問である。

 ここで話し合われたことの公式記録は存在しないが、いくつかの伝聞記録によって、その概要をうかがうことができる。
 ここで裕仁は、対米開戦は自分の望むところでなかったと言い訳しつつも、自分の戦争責任を率直に認めたらしい。

 これがマッカーサーの心証を劇的によくした。
 マッカーサーにとって、天皇は信頼に値する人間と受け止められた。
 言い方を変えれば、ゼロから「日本」を建てなおさねばならないマッカーサーに、「裕仁は使える」という確信を与えることになった。

 政府指導者は、あくまで「国体」の維持のみを求めて右往左往していたが、天皇は、自分と自分の一族の立場が維持できるなら、どれほどの代償を払ってもよいと考えていた。
 「日本」の歴史上、摂関政治の時代・院政の時代・武家支配の時代と、天皇の統治大権が否定された時代の方が長かった事実、にもかかわらず、天皇の地位が綿々と受け継がれてきた事実を見れば、いわゆる「皇統」が維持できれば御の字、と考えるほうが自然である。

 本書は、マッカーサー側と「日本」政府側の動きを中心に叙述されているが、昭和天皇がこのとき大胆かつ主体的に、自分の保身のために行動していたことを、見落としてはいけないだろう。

 新しい「日本」の設計図作りのハイライトは、1946年2月に訪れた。
 「日本」政府は松本烝治担当大臣を中心として、明治憲法とほぼ同内容の「新憲法」を作成しつつあった。

 開戦前と同じ政治形態など、ソ連やオーストラリアが参加する極東委員会で認められるはずはなく、いずれ裕仁が戦争犯罪人として逮捕・起訴される可能性が大きくなる。
 マッカーサーは占領支配に役立つ道具としての裕仁を失いたくなかったから、頭の悪い「日本」政府と時間をかけてやりとりしている余裕はなかった。

 こうして、たいへん忙しく、強引にマッカーサー草案が執筆され、政府に与えられた。
 だから、「日本」政府にとって、新憲法は押しつけられたのである。

 しかし国会は、若干の字句修正の上、圧倒的多数で新憲法を支持した。
 反対したのは日本共産党だけだった。
 少なくとも、当時の「日本」人の多くは、この憲法を前向きに受け止めた。

 それが日本国憲法の制定だった。

(ISBN978-4-16-748317-3 C0195 \590E 2008,4 文春文庫 2017,8,14 読了)