半藤一利『日露戦争史』(1-3)

 日露戦争の全過程を叙述した大著。文庫版だが1300ページほどになる。

 明治「日本」は、日清戦争前ごろから、朝鮮半島の領有を「生命線」と考えるようになっていった。
 それに立ちはだかったのが、ロシアだった。

 ロシアにとって不凍港・旅順が「生命線」であり、朝鮮半島が「防衛線」だった。
 日露の対立点はここにあった。
 朝鮮(途中から大韓帝国)にとってこの対立は、迷惑以外の何ものでもなかったのだが。

 ロシアによる朝鮮への侵食は、「日本」にとって深刻な脅威と映った。
 ことに、ロシア陸軍の満州への進出は、朝鮮半島における「日本」のヘゲモニーを完全に否定するものと受け取られた。
 日露戦争は、そのような対立の延長線上にあった。

 従って「日本」の戦争目的は、まずは南満州からのロシアの撤退にあった。
 戦前の交渉も、その点が焦点となった。
 しかし、ロシアは「日本」の要求に応じず、開戦は不可避となった。

 当初の海軍力の比較で言えば、「日本」のほうがまさっており、黄海海戦を始め、ロシア旅順艦隊はほとんど、まともな戦闘ができないまま、弱体化していった。
 「日本」国民は、きびしい増税に耐えつつ、熱狂して戦争を支持した。

 バルチック艦隊出港後、「日本」軍は、陸軍に甚大な犠牲を払いつつ、旅順艦隊を壊滅させた。
 日本海周辺の制海権は完全に「日本」のものとなった。
 しかし、旅順攻略の際に帝国陸軍の第三軍(乃木希典軍)が出した犠牲については、記憶しておく必要があろう。

 一方、陸軍は遼陽・奉天と厳しい戦いを勝利した。
 これも国民を熱狂させたのだが、戦闘経過を見ればまさに、「神の加護」があったかと思える薄氷の勝利だったのであり、「日本」軍に武器・兵員・財政上の余力はほとんどなく、ロシア陸軍は敗退しつつも、未だ余力を残している状態だった。
 元老・政府・大本営の戦争指導者たちは、「日本」が圧倒した勝利でないことを冷静に見ており、早期からアメリカを仲介とする講和の道を探っていた。
 著者はこの点を高く評価しておられる。

 決定的な勝機となったのはもちろん、日本海海戦である。
 「日本」が強いから勝ったのは事実だが、戦争のタイミングはじつに微妙であり、これまた「神の加護」モノだった。
 現場はそれを痛感していたから、東郷大将は、「勝って兜の緒を締めよ」とコメントしたのだが、国民は単に「日本」の強さに酔いしれた。

 この後日本軍は、樺太を容易に占領した。
 かくて日露戦争は、ほぼ全局面で「日本」の勝利となった。

 以上の経過から、次の世代すなわち陸海軍の中堅を始め国民は、何を学ぶべきだったのか。
 じっくり考えたいところである。

(ISBN978-4-582-76839-8(76840-4 76842-8) C0321 \900E 2016,4 平凡社ライブラリ 2017,7,23 読了)