吉村昭『海軍乙事件』

 帝国海軍最大の不祥事ともいえる機密書類紛失事件の概要を描いたノンフィクション。

 この事件について追究した本は数冊あるが、それ以上でも以下でもないアウトラインをみるには、本書がよい。

 この事件が大日本帝国の敗戦に致命的な影響を与えたわけではない。
 というのは、敗戦はおおむね、開戦前に決していたと言えるからだ。
 とはいえ、作戦の基本方針を記した計画書と暗号書がアメリカの手に渡ったことは、「日本」軍にとっては致命的な事態だった。

 不祥事の一つは、この事件の際に、連合艦隊司令長官古賀峯一が事故死したことだった。
 「甲事件」の山本五十六の場合は、敵戦闘機によって撃墜されたのだから、あきらかな戦死である。
 この二つのケースの違いは、じっさいのところさほど大きくないと思われるが、帝国軍人としての大義名分からすれば、大違いなのである。
 古賀の事故死は、国民に対し説明しづらい事件だった。

 それよりもっと深刻なのは、乙事件で生存した将官が敵に機密文書を奪われた件だった。
 この文書を入手したアメリカ軍は狂喜し、事後の作戦に最大限利用することができた。

 一方、文書を奪われた連合艦隊参謀長だった中将福留繁は、捕虜になったのち、敵ゲリラとの取引によって生還した。
 福留にすればベストを尽くした上でそうなったのだから、糾弾されるいわれはないのだが、帝国軍人としての大義名分からすれば、生還はあり得なかった。

 とすれば、この事件は、もみ消す以外にない。
 大義名分的には一大不祥事だったにも関わらず、当時の「日本」ではありえない不祥事だったために福留は免罪され、予備役にもならず、その後も特攻作戦の計画と実行などに働いた。

 帝国海軍の歴史的にとっては、むしろこのもみ消しの方が恥ずべき事実だったと言えよう。

(ISBN978-4-16-716945-9 C0193 \524E 2007,6 文春文庫 2017,5,31 読了)