佐藤健一『真説 甲州一揆』

 郡内騒動の概略と、その頭取だった犬目村兵助の逃亡の顛末をまとめた書。郡内騒動を歴史的に位置づけようとした書ではない。

 郡内騒動については、40年ほど前に刊行された深谷克己氏の『八右衛門 兵助 伴助』で読んで以来だった。
 『八右衛門 兵助 伴助』は、幕末の百姓一揆指導者が人格的にどのような特徴を持っているかという視角から書かれた興味深い本だった。
 江戸時代というイデオロギッシュなエトスから、人格が抜け出していくプロセスがいきいきと描かれていて、ワクワクしながら読んだものだった。

 郡内騒動は、兵助・治左衛門という指導者が、熊御堂村奥右衛門という豪商を膺懲することを目的として起こしたのだが、事態は指導者の想定していた以上に拡大し、甲州のほぼ全域に及ぶ打ち壊しに発展したものである。

 ところで事件後、治左衛門は捕縛・処刑されたが、兵助は逃亡の末、犬目村に戻り、無事に一生を終えたという。
 本書は、兵助が逃亡時につけていた日記に基づき、お尋ね者となった彼が何をしていたのかを描いた本である。

 兵助は事件後、いずれかのルートを経て秩父・札所二十八番寺にあらわれる。
 どのルートをたどったかについて、本書は、諏訪村から鶴峠を越えて小菅村・丹波山村に出て氷川で左折して日原か倉沢から仙元峠へ登って浦山大日堂に至ったと想定している。
 なぜこのようなルートかについて、それなりに根拠はあげられているが、あまり説得力があるとは思えない。

 北陸や四国まで指名手配が行き渡っていたとは思えないが、甲州から武州へ抜ける道はそうとう厳重に警戒されていたはずで、兵助が人通りが多かった街道を堂々と歩いていたとは思えないからである。

 しかし兵助は、まったく夜陰に紛れた逃亡生活をしていたわけでもない。
 彼は、秩父まで来れば、残る札所にお参りし、その後上州を経て信州、北陸、京都を経て四国の札所を巡拝している。
 関西まで来れば、彼はもはや逃亡者というより、普通の旅人として歩いており、行く先々で算術指南などなど行っている。

 江戸時代の日本では、欠席裁判で死刑判決を受けたほどの罪人でも、居村を遠くはなれてしまえば、捕まるおそれはなくなったようだ。

 さらに彼は、木更津を経て最後は犬目に帰っている。
 お尋ね者が戻ってきていることは、誰にもわかっていただろうし、権力側にも知られただろう。
 「時効」という考え方が存在したわけではなかろうが、何らかの理由で彼の罪科を蒸し返さないという処理がなされたのだろう。

 著者は、蛮社の獄に連座した高野長英と対比して、郡内騒動が一甲州のローカルな事件だったから大目に見られたと考えておられるようだ。
 それもありかと思う。

(ISBN4-7887-9314-8 C0021 P1700E 1993,4 時事通信社 2015,12,25 読了)