木村茂光『ハタケと日本人』

 古代から中世にかけての「日本」における畑作の意味について、文献史料に基づいて考察した書。

 律令制時代以来、コメは政治的な作物(網野善彦氏)だった。
 民衆は、食べるためにでなく、貢納するためにコメを作った(というか作らされた)のである。

 コメのできないところからの貢納物は、海産物・林産物や獣製品で、それはそれで意味があったのだが、国家の運営に大きな意味を持っていたのはコメ以外になかった。

 コメは貨幣同様の機能を持っており、与えられるコメあるいは領地から貢納されるコメが、その人物の地位の価値を表現した。
 これは、幕藩制時代まで同じだった。

 コメを作る人々は、麦その他の雑穀を主食した。
 作物としては、大麦・小麦・粟・稗・黍・高黍・大豆・小豆などがそれに該当した。
 古い時代ほど粟・稗の比重が大きかったようだ。
 これらは建前上、貢納の対象ではなかったが、二毛作が実現した地方では、大麦は貢納させられた。
 菜類も貢納の対象でなく、換金もできなかったから、権力もさほど関心を持たなかったようだ。

 東日本最大の平坦地は関東平野だが、ここは火山灰地のため、水田には向いておらず、畑作地帯で゛ある。(水温の低い越後での水田作付は困難だっただろう)
 列島の穀倉地帯は、濃尾平野以西の西日本であり、東日本の貢納物は各種産物が中心となった。

 コメの生産では西がまさっていたかもしれないが、権力は生産力をコメで表現したから、東日本の生産力を捕捉するのは困難で、東日本の貢納負担は相対的に低かったと思われる。

 東日本・東北における民衆の暮らしの実態は、まだほとんど未解明なのではなかろうか。

(ISBN4-12-101338-7 C1221 P700E 1996,12 中公新書 2015,12,8 読了)