著者による博多・沖縄紀行。
「日本」の大陸への玄関口だった博多という町のことも知りたいが、何度か出かけたことのある沖縄の方により興味をそそられる。
歴史学あるいは人類学あるいは民俗学といった諸学によってクールにアプローチするのもよいが、実績ある作家である著者だから許されるいくらかウェットなアプローチもよいと思う。
人類学の中には、琉球人とアイヌ人の共通性を指摘する意見がある。
それが的を射ているとすれば、彼らこそが原「日本」人であり、遅れて大陸からやってきて、列島中心部に跋扈したインベーダー(それが「日本」の支配階級となる)によって南北の「辺地」へ追いやられたという展望も成り立つ。
南北の原「日本」人たちには、動物や鳥や植物や風や雪など、あらゆる自然のことどもの中に神を見出し、神を恐れ、神とよく折り合いをつけつつ日々の暮らしを築くという、共通した生き方がある。
神に仮託しつつ語られるこれらの知恵は、その後も、列島民の意識の基層をなしてきた。
一方インベーダーの一般民たちは、先住民に学びながら、造山活動によって作られた急峻なこの列島で暮らす知恵を編み出していった。
何も学ばなかったのはインベーダーの支配者たちだった。
彼らは自分たちの暖衣飽食生活の永続のみを願い、権力を行使してきた。
まさに嗤うべきことだが、彼らインベーダー支配者の、陰険で残忍な策動の羅列がいわゆる「日本史」であり、インベーダー支配者のおこぼれにありつくことによっていい思いをしてきた者たちによってでっち上げられたのが、「日本の伝統」である。
沖縄で感じた、心が洗われるような思いを著者は、「情」と表現している。
適切な表現だと思う。
神=自然を畏敬し感謝し、神=自然とともに自分たちの暮らしを紡ぐ沖縄の心を、インベーダーの中でもひどく低劣な心性の持ち主である現在の為政者たちが理解できないのは、当然である。