石光真人編『ある明治人の記録』

 会津藩士の子息だった柴五郎(1859-1945)の手記。

 柴が鶴ヶ城の落城に遭遇したのは満9歳の時だった。
 彼は鶴ヶ城攻防戦に参加しておらず、故に明治・大正・昭和を生きることができたのであるが、攻防戦の際に、祖母・母・姉妹を自刃によって失うという、痛哭の体験をもつ。
 本書は、薩長兵によって会津が蹂躙された状況の貴重な目撃談である。

 戊辰戦争で、薩長軍・会津軍それぞれが大義名分を掲げて戦ったわけだが、一般民衆にとって、いずれが勝つかによって自分たちの暮らしが大きく変わってくるというものでもなかった。
 民衆にとってはむしろ、支配者として自分たちにのしかかっていた会津軍の敗北を望む気分が強かったかもしれない。

 領民から感謝してもらえるような統治を行っていたのなら、会津軍の戦いの大義は立つのだろうが、反薩長というような大義など、民衆にとってはどうでもよかっただろう。

 しかし薩長軍が、解放軍であるわけではなかった。
 戊辰戦争は、支配者同士の内戦に過ぎず、民衆にとっての闘いは、別のところに存在していたはずだ。

 会津軍と薩長軍は、まさに仇敵であり、いずれが支配者として生き残るかを賭けた決戦だったから、敵に対し容赦する余地は少なかった。
 会津藩士とその家族に対する薩長の仕打ちは残酷だが、滅ぼすべき敵への対応として異常ではなかろうし、西南戦争時に旧会津藩士が雀躍して西郷軍との戦いに赴いたのも、故のあることである。

 この戦争はまた、藩閥政治の出発点でもあった。

 明治時代前半を通して柴五郎は、辛酸の青年期を過ごすが、やがて陸軍の中で頭角を現し、大将の地位にまで昇りつめる。
 明治国家という幻想が国民に浸透する中で、戊辰戦争における憎悪の記憶も、拡散していったかに見える。

 柴は、それを忘れまいとした人だった。
 蹂躙された側の会津にとって、悲しい記憶は容易に消し去ることができるものではなかった。

 しかし何度も言うが、この戦闘を覚めた目で見ていた民衆がきっといたと思う。

(ISBN4-12-100252-0 C1221 \660E 1971,5 中公新書 2015,5,22 読了)