山本素石『渓流物語』

 古き時代の、渓流の記録。
 釣りの話がたくさん出てくるが、釣行記ではない。
 また、古き時代とはいえ、よき時代の話でもない。


 この本は、著者山本素石の、嘆き節に満ちている。
 1982年の段階で、山本の見た列島の山村は、続々と壊滅しつつあったのである。

 本書に登場する釣り記録は、公共交通機関を使っての釣行と、マイカーを使っての釣行が半々程度である。
 1970年代頃が、個人が自分の自動車を使って渓流釣りに行く時代のハシリだったのだろう。
 とすると、60年代まではおおむね、電車・バスを使ってアプローチし、民家に宿を乞うて奥地の源流を目指したのだろう。

 公共事業と釣り人の襲来によって釣り場が荒れ果てる以前の渓流の姿を、自分を含め現代の釣り人は、まったく知らない。
 釣り雑誌に「太古と変わらぬ姿の源流」などと書かれていることがあるが、そう書かれていること自体が論理矛盾である。

 本当の渓流には、人が住んでいるか、もしくは人の行き来があるのである。
 全くの無人境に、渓流魚が生息しているわけがない。
 人と会わないで渓流釣りをするなど、ありえなかったし、自然と対峙する前に、人と対峙するのが渓流釣りであるべきなのである。
 そんな釣りをされていた最後の釣り人が、杉浦清石さんだった。

 山本素石のぼやきや怒りは、渓釣りが渓釣りでなくなっていくことに対する怨念と諦念の表現だったのだと思う。

(ISBN4-915511-02-2 C0095 \1400E 1982,1 朔風社 2010,3,24 読了)