野添憲治『花岡事件と中国人』

 花岡事件当時の中国人側のリーダーだった耿諄からの聞き書き。
 『花岡事件』とちがって、こちらは事件から50年近くたってからの回想だが、かなり細部までよく覚えておられる。


 劉智渠が八路軍の兵士で、耿諄が国民軍の将校だという点で、経歴に差はあるが、日本行きの船に乗せられるところから花岡に着くまでは、劉智渠の体験とほぼ変わりはない。

 耿諄は連行された中国人の大隊長に任じられたために、作業現場での苦役が免除されていたから、一般連行者の受けた暴行の詳細については、劉智渠の方がはるかに詳しく、リアルである。
 耿諄は中国人のまとめ役として、全体に関することを鹿島建設の現場監督に伝える立場だったが、要求に対して報復で応える鹿島側と中国人の間に立たされるのは、想像を絶する苦しさだったと思われる。

 劉智渠の証言にないのは、蜂起が失敗に終わり、捕縛されてから裁判にかけられる以降の部分である。
 リーダーだった耿諄への取り調べも拷問があったが、その他の中国人に対しても同様だったと想像される。
 とすると、蜂起失敗後の拷問で殺された中国人も少なくないはずだが、その点については、耿諄・劉智渠の両名とも、(状況がわからないから当然だが)ほとんど語っていない。これは、明らかにされねばならない部分である。

 他の人々が帰国する際、耿諄が日本にしばらく残留したのは、数百人にのぼる中国人を惨殺した鹿島建設の現場監督たちに対する裁判で証言するためだった。
 現場監督たちは死刑判決の3名以下、数名が有罪となったが、刑は執行されず、犯人たちがその後、どのような人生を歩んだかは、わかっていない。
 これは、日本人が明らかにすべき課題だが、研究者の誰かが、取り組んでいるのだろうか。

 この裁判における最大の問題は、鹿島建設の責任が不明確なままだった点である。
 中国人被連行者に対し現場監督の行ったリンチが社命だったかどうかはわからないが、リンチが黙認されていたか、中国人被連行者の待遇に対し、会社が注意を払わなかったのは間違いなく、その一点だけでも、鹿島の責任は明確である。
 社の責任を認定してあれば、鹿島が謝罪や補償に応じないために、被害者たちが今なお、精神的に苦しまねばならないようなことにはならなかったはずだ。(会社の責任を認めれば中国人強制連行を命じた閣議決定に賛成した閣僚や彼らを任命した天皇の責任も認めなければならないが、それは当然である)

 耿諄は、帰国後も文化大革命の時代に、国民党の士官だったという理由で迫害を受けねばならなかった。
 重ね重ね苦難の人生だったわけだが、その彼が事件後50年たつ時点で「我々は子々孫々まで永遠に鹿島建設に対してこの歴史の血債を追及し続ける」と言わねばならない不幸を、どう考えればいいのだろう。

(ISBN4-380-97308-5 C0036 \2200E 1997,12 三一書房 2009,12,24 読了)