宮本常一『民俗学の旅』

 民俗学の巨人の自伝。
 学問の目的や方法について、本質的なことを明確に語っている。
 若いときにこの本に出会っていれば、勉強の仕方が変わっていただろうが、その当時、本書で語られていることを理解できたかどうかは、疑わしい。


 民俗学は、習俗のさまざまを記録し整理するのが目的なのではなく、生活の知恵を記録するのが目的らしい。
 生活の知恵を記録するのは、よりよい生活のためである。

 この読書ノートの中で、日本の在来民は、日本列島に暮らす上の膨大な知恵を蓄積しているが、過疎化やダム建設を始めとする生き方破壊の中で、急激に消滅しつつあるということを、幾度となく書いてきた。

 現在のように、日本が工業国家であることさえやめて、あぶく銭稼ぎ国家をめざそうとする事態など、著者には想定できなかっただろう。

 進歩とは、それまでにできなかった何かができるようになることではなく、人々の暮らしが全体として前進することを意味するものでなければならない。

 たとえば、素粒子を操作したり、生命の基本情報を操作したりすること自体は、何の進歩でもなく、人間のおかれた状況の変化に過ぎず、現状ではなんら進歩というに値しない。

 封建経済が市場経済にとって代わられて久しいが、消費生活が多様化した以外に、市場経済のよい点など、一つも見あたらない。
 消費生活の多様化とて、それがよいことだったと言えるかどうかは、今のところ何とも言えない。

 とすると民俗学は、日本列島民が、基本的な暮らし方を変えることなく、部分的な改良をめざしていた時代に意味はあったが、今や有職故実化してしまったのだろうか。

 列島の暮らしは一様でない。
 山間部と扇状地では土質が異なるから、耕耘に適した道具は異なるし、例えば鍬の形状や重さも異なる。
 それら多様さの集大成が列島の暮らしであり、民族の知恵というべきである。

 これらを体系化するのが、民俗学という学問なのだと、今更ながら知った。

(ISBN4-06-159104-5 C0139 P800E 1993,12 講談社学術文庫 2009,6,12 読了)