五来重『熊野詣』

 熊野は海と山という、二つの顔を持ち、文化的にも一つのまとまりを持つ地域である。
 古代に、山人・海人のどのような生活が営まれていたかがさほどわからない反面、独特の信仰が胚胎していたことは、かなり明らかになっている。


 熊野が文化的・経済的に殷賑を極めるのは中世だが、その濫觴期は後白河院をはじめとする院や貴族の熊野詣だった。
 畿内政権中枢部に属する人々が熊野信仰に惹かれていったのにはさまざまな動機があろうが、彼らを熊野参詣に駆り立てるだけの法理は整備されていたのだろう。

 この本は、熊野信仰という文化をとてもわかりやすく解説している。

 諸書をひもといてみて印象深いのは、熊野詣に対する院や貴族の姿勢が、意外なほど謙虚だという点である。
 現在の天皇一族の旅行など、公務でもないのに「ご公務」などと言われて、多額の税金を費消するのみならず、山の環境を大いに破壊してなお、平然としている(この本など参照)。

 近代の天皇制国家は天皇一族を神の末とし、絶対的存在へとまつりあげた。
 象徴天皇制という論理的に難しい制度のもとにおかれるようになった戦後になっても、天皇について自由に語る雰囲気にはない。
 それは天皇一族の威厳保持に多少は有効かも知れないが、国民の思想・信条の自由に一定の枠がはめられている(いわゆる「菊タブー」)のみならず、天皇一族の基本的人権も制限する結果となっている。

 だが、熊野という世界に鎮座する大いなる存在の前では、院や貴族といえど、衆生の一人に過ぎず、決められた所作に従いつつ、頭を垂れたのである。
 大いなる存在の前では院も庶民もハンセン病者も同じく、救いを求める存在である。
 当然のこととはいえそれは、近代天皇制とは全く異なる世界だったし、天皇一族という世俗の権威とは異なる、宗教的な権威を確立していたが故に、のちに庶民一般にも信仰せられたのであろう。

 宗教的集団が組織として整備されていくためには、法理の整備が必要だが、修験の法理は知や儀式を中核とするものでなく、岩や滝とある時には対峙し、ある時には一体化するというすぐれて実践的な修業の裏づけを持たねばならず、時には病気平癒などを求める祈願者の願を実現して見せなければならなかった。
 修験の説く現世利益は、常に結果を求められ、結果が出せなければ行者の修業不足と判断されて、信者を失わねばならなかった。
 修験の信仰上の魅力は、そのような実践性と、結果を伴う現世利益にあったといえ、中世期に大峰や熊野の修験が列島各地に広がっていったのも、儀式や法理の難解さや伽藍や祭祀用具の荘厳さなどより、修業に裏打ちされた行者本人の法力が畏敬されたからだろう。

 江戸時代末期の現世利益観と中世のそれとが、どのように連続し、また断絶しているのかは、一つの興味深いテーマである。

(ISBN4-06-159685-3 C0114 \760E 2004,12 講談社学術文庫 2008,8,10 読了)