白水智『知られざる日本』

 歴史における山村像、ひいては日本列島史の修正を迫る本。

 かつて自分自身、山村とされる村落を研究対象としていたので、このところ整理されないまま断片的に考えてきたことが、この本にはみごとに整理されているので、たいへんすっきりした。


 かつて研究対象としていた秩父郡長留村は、田地がそこそこ存在するが畑地が多く、しかも下畑や下々畑とされる土地がほとんどだった。
 近世の地方文書に記載されたそのような数字や『新編武蔵風土記稿』を見て、「生産力が低い村」と規定したのは、今となっては考え足らずだが、当時の知識・認識ではそれが精一杯だった。

 ダムにかかわる諸問題山村を切り捨てる教育行政との対決を経て、かつて研究した村と山村との相違に気づいた。
 かつて研究した長留村は一部に山村的地区も存在するが、おおむね山地農村(行政の用語で言えば「中山間地」)で、生活の基本はやはり農業であると思える。(この点について厳密に研究したわけではないが)

 秩父地方は、武州一揆や秩父事件など、幕末から近代初頭にかけて、際だった民衆闘争を体験しているのだが、その実働部隊を構成したのは、やはり山地農村に住まいする、主として養蚕に生活を賭けていた人々だった。

 大滝村や中津川村・三峰村のような純然たる山村からは、これらの民衆闘争への参加者は出ていない。
 秩父事件は政治闘争であるが、参加の動機の最たる部分はやはり、経済要求である。
 自由民権期の経済要求とは負債の返済条件に関する要求なのだが、この当時、山村住民は養蚕・製糸によって暮らしを立てていこうという志向を持っていなかったから、おそらく、負債とも縁が薄かったのだろう。

 皆野町や吉田町・小鹿野町・両神村の上流域には、山村といっていいかも知れない地区も存在し、それらの地区からの秩父事件参加者もいる。
 これらの地区では、養蚕業が主たる生業として成立する可能性があり、それは細々たる農業よりはるかに魅力的だった。
 養蚕を志すということは、負債を負うことに直結した。

 負債を負うことは、必ずしも、破滅に向かうことではない。
 経営の充実のためにも負債は避けて通れないからだ。
 秩父事件の参加構造は、経済面からのみ説明できるものではないが、経済的構造を言えば、そのようなことだったろう。

 かくて秩父の奥山山村は、民衆運動の歴史を研究する人々の視野から消え去り、今なおほとんど注目されることなく、現在に至っている。

 2007年夏に、秩父山地の歴史と文化と題する駄文を執筆する機会を与えられ、展望を含めた秩父山村(奥山・里山を含む)の歴史を俯瞰してみた。
 その時この本に接していれば、もう少し突っ込んだ書き方ができたかも知れない。

(ISBN4-14-091030-5 C1321 \1160E 2005,5 NHKブックス 2008,7,30 読了)