増田都子『たたかう! 社会科教師』

 東京都教育委員会の暴走ぶりは、異常そのものである。
 教育委員だった将棋指しが2004年に、「日本中の学校で国旗を掲げ国歌を斉唱させるのが私の仕事であります」と述べて天皇から「強制でないのが望ましい」とたしなめられたニュースがあった。
 東京の教育の世界では、右翼的であればあるほど喜ばれると思っているのだろう。


 教育委員がそんなだから、上司の顔色をうかがってその意を汲むことに汲々としている都教委事務局の役人(「指導主事」等の職名で行政職に出向している教員)もまた、信念を持って教育に携わる教員を目の敵にし、ありとあらゆる嫌がらせ・パワーハラスメントの限りを尽くす。

 彼らの背景には石原慎太郎知事がいる。
 石原知事の存在があってはじめて、無茶な教育破壊や人権侵害が可能になっているのだが、教育とは息の長い仕事だから、少しずつ顕在化するであろう差別・選別教育や右翼的な教育の結果に対し、彼らが責任を負うことはない。

 東京都の場合、教育現場への政治的攻撃を担っているのは、知事や教育委員だけではない。
 都議会の自民党・民主党が右翼マスコミ(産経新聞や新潮社など)や右翼集団と連携して、特定の学校や教師をターゲットにして、狂気のごとき誹謗・中傷キャンペーンを行っている。

 著者が行っているのは、何の変哲もない、ごく普通の社会科教育である。
 歴史上の事実や社会問題に対し、生徒に意見を書かせ、それをプリントにして紙上で意見交換させ、さらに認識を深めさせる。

 自分ならやらないと思われるのは、意見交換の場において、教師が生徒の前に立ちはだかっているように見える点だ。
 中学生であっても生徒たちはもちろん、(適切な教材を使ったわかりやすく適切な授業を前提とすれば)自分たちのしっかりして考えを作ることができる。

 しかし、生徒の考えは変わっていく。
 認識が深まるということは考えが変わることである。

 自分なら、著者の授業を以下のように批判する。

 たとえば、戦争と平和について学習するならば、ただ単に戦争に反対であればよいのではない。
 十五年戦争は決して許されない悲惨な戦争だった。
 しかし、当時の日本にとって必然的な戦争だったという側面だって、見ないわけにはいかないのである。

 弱肉強食の帝国主義全盛期に日本が行った戦争の意味について、より深く考えさせるのがよい授業であるはずだ。
 先生が生徒の意見に対し正面から答えようとしたのでは、横綱と幕下が真剣勝負をしているようなものではないか。
 生徒には生徒の発達の論理がある。それは教育心理学の領域である。
 それを踏まえないと、本来の意味での政治教育が政治的教育になってしまいかねないのではないか。

 このように批判すればもちろん、著者から反批判が返ってくるだろう。
 このような相互批判はおそらく互いに有益である。
 授業研究とは本来そのようなものであり、教師の授業技術は、そのような相互批判によってしか、向上しない。

 自民・民主の都議及び東京都教委が行ったのは、授業方法に対する政治的懲罰に他ならない。
 そこに流れる論理には、教育という文脈は一切存在せず、権力と暴力による教育の抹殺以外の何ものでもない。
 著者への分限免職処分に対する法廷での審理は継続中であり、いずれは著者が勝利すると確信している。

 都教組(全教系)や日本共産党が著者の闘いに背を向けているのは、問題の本質を見誤った愚行と言わざるを得ない。

(ISBN978-4-916117-77-9 C0036 \1700E 2008,2 社会批評社 2008,7,24 読了)