内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

 合理的精神・国民国家・近代化・科学の進歩などの範疇を丹念に検討し、その限界性を指摘し続けている著者による、歴史哲学論。

 それら近代的精神はある面では有効だが、絶対的ではない。
 そのことは、世紀末の時点で、誰の目にもほぼ明らかになったと思われる。
 世界の社会・経済・政治が近代的精神のそれも粗悪な部分にしがみついているのは、無知と欲のせいだろう。

 現代の世界を動かしている原理である近代的精神は、ヨーロッパのローカル思想だということも、この間の著者の発言によって理解できつつある。
 ヨーロッパ思想は、いい面もあるだろうが、絶対ではない。
 自然を作り変えることによって生活を成り立たせてきたヨーロッパ人にとって、人間中心主義や合理的精神が発達する理由があったのだが、自然を見る目は偏狭で、危険な面もあることに留意しなければいけない。

 いま世界では、イスラムの人々による異議申し立てが激発している。
 やり方に疑問もあるとはいえ、イスラムの人々が「民主主義や自由」の仮面をかぶったヨーロッパ思想の押し売りに反発するのは当然だ。
 グローバリズムは社会としての永続可能性がない「滅亡教」だから、いずれそっぽを向かれるだろう。
 日本には、日本人の暮らしにフィットした哲学があるはずだが、その実体はかたちあるものとして見えてこない。
 日本おける考え方の基本がわかりづらい原因の最たるものは、天皇制国家による偽造された歴史だが、必ずしもそれだけではない。

 著者が言われるように、自然環境や人間の手技(てわざ)や生活の知恵の中に流れる歴史は変わらない(変わるべきではない)歴史である。
 狭い日本列島だが、自然・社会条件は千差万別だから、そのローカリティは多様である。

 階級闘争と社会構成体の変化だけでは、歴史を語ることはできない。

(ISBN978-4-06-287918-7 C0221 \720E 2001,12 講談社現代新書 2008,3,3 読了)