加藤哲太郎『私は貝になりたい』

 BC級戦犯裁判は、裁判自体の正当性の面でも杜撰さの点からも、歴史的に未解決の問題として残されている。


 いわゆる戦時国際法違反に関する断罪は必要だった。
 それも、個々の容疑者の行為自体だけでなく、結果として餓死・財産の損壊等の被害は誰のどのような指示・行為によって生じたのかまで、明らかにすべきだったと思う。

 日本人戦犯に対する裁判は、連合国側の同様の行為が裁かれてはじめて、正当づけられる。
 その点から極東国際軍事裁判を見ると、これは復讐裁判あるいは政治裁判だったという批判はまぬがれ得ず、裁判の正当性は全うできないだろう。

 しかし戦争犯罪が存在したのは厳然たる事実であり、その責任は明らかにされねばならないし、責めを負うべき人は罪を償わねばならない。
 それは、起きてはならないことが起きないようにするためである。

 著者が体験したような事実は起きてはならないことだった。
 著者は陸軍の将校として大陸・内地で勤務してきたのだが、上官の命令は天皇の命令だという日本軍の中で、それに違背できるものではない。
 結果として、著者加藤哲太郎も、望まなかったにもかかわらず、起きてはならないことの一部に荷担することになった。

 この深刻な背理の意味を、多くの日本人が考えようとしない理由がわからない。
 加藤に殴られたマーチン大尉は、「日本軍の命令が天皇の命令だったとしても、やっていいことと悪いことがある」という意味のことを述べたという。
 当然だ。

 日本軍が戦時国際法に違反する行為を組織的に行ったことは、揺るがない事実だ。
 従って、日本軍将校・兵士などのおそらく大多数が、戦争犯罪者のはずだ。

 多くの日本軍人が犯した犯罪行為は、国家を守るという大義名分とは何の関係もなく、単に許されざる犯罪なのである。
 戦死とは無惨なことだが、その意味はきちんと明らかにされねばならない。
 戦死した人の中には、犯罪行為を犯した日本軍人も少なからず含まれているはずだ。

 著者は、死刑判決を受けるという極限状況にあって、生命への希望を渇望する一方で、自分の行為を直視し、「将来の日本国民が、中国で犯した日本軍人の戦争犯罪を無視したり、過小評価することになれば、それはとんでもない認識不足で、不幸な事態をひきおこす恐れがある」と述べている。

 起こってはならないことが起こらないようにするために、日本人に何が必要か。
 受け止めなければならない問題提起が、著者の言葉の端々に見えている。
 それをきちんと受け止めるか、それともかつてと同様、見なかったふりをするのか、それが問われている。

(ISBN4-393-44153-2 C0095 \1648E 1994,10 春秋社 2008,1,17 読了)