畠山剛『学校が消えた』

 岩手県の山村において、小中学校がどのようにして作られ、どのようにして消滅しつつあるかをあとづけた書。
 学校が、子どもの権利を保障するためでなく、国家の都合により適宜存廃されてきた歴史を明らかにしている。


 小学校の設立に至る歴史については、調べたこともあるが、この本を読んでいくつかの問題を教示された。

 一つは、学事統計の中から「無許可不就学児童」が省かれているという指摘。
 「不就学児童」とは「就学免除」と「就学猶予」の対象者のことで、最初から就学しない子どもは、統計に登場してこないのである。
 従って就学率の分母は、学齢児童数から無許可不就学児童を引いた数ということになる。

 『秩父事件−圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ』などでも小学校への就学率についてふれているはずだが、数字のこのトリックには思い及ばなかった。
 木地師や炭焼きなどの子どもたちは、これに該当していたかもしれない。

 もう一つは、「学校設置義務免除」、すなわち義務教育を免除された地区の存在である。
 これは近代教育の出発点であった「学事奨励ニ関スル仰出書」以降、すべての教育基本法令に違反する制度である。
 埼玉県に関する限り、このような制度の存在は見たことがない。

 国家は、法と面目のために学校を設置しようとするが、あまりにも交通不便な場所は義務教育免除にして、国家たる責任を放棄した。

 そもそも学校設置の費用はほぼ全て住民負担によったのだが、住民にとって学校は、人間らしく生きていく上でどうしても必要な存在だったから無理に無理を重ねて、その費用を捻出した。
 だから国家(の行政委任を受けた町村)の役割はほぼ、学校事務と教員派遣に尽きるのだが、それさえ果たされなかったのである。

 本書後半には、山村における戦後の小学校設置と廃止の流れについて記されている。

 日本国憲法・教育基本法のもとで、教育は人間としての本質に根ざした権利であるという理念が明確にされた。
 国家にとって必要なのではなく、人間にとって必要だから教育が行われるという観点の確立は、教育の歴史にとって、最大の達成点だった。

 1950年代にかけて叢生した小学校・分校は、その理念を具体化したものだった。
 それは同時に、居住地域や職業の如何にかかわらず教育の機会を享受させることによって、近代化の過程で発生した平地と山間部の地域格差を埋めることを目的としたものだった。

 高校の定時制や分校のたどった軌跡については、ここここで述べたので、繰り返さない。

 教育の機会が増えたことは、教育弱者・情報弱者の立場におとしめられていた山村住民にとって、希望が増えたことだった。
 山村という環境を活かした教育実践や少数教育の利点を活かした教育実践も現れ、山村住民にとっての教育は、よい方向に向かっていた。

 ところが高度経済成長期以降の農林漁業政策は、日本の産業構造をドラスチックに変貌させた。
 これは政策の誤りというより意図的な農林漁業破壊政策だった。

 農山漁村は、産業・資源・人のすべてを奪われ、地域としての存立が危機に瀕することとなった。
 それに加えて、教育に何の関心もない一部の為政者が少人数校には「投資効果がない」などと放言し、折からの財政難をも口実に、教育リストラが始まった。

 地域の崩壊をくい止めるために、当局がなしえるせめてもの施策が、教育の灯をともし続けることである。
 安心して子育てができる地域であることが、人間が暮らせる地域であり続ける上で、最低限の条件である。

 今のところ、どこの自治体を見ても、このことに関心を持つ当局者がいるようには思えない。

(ISBN4-88202-471-3 C0037 \1900E 1998,2 彩流社 2007,9,12 読了)