宇江敏勝『山に棲むなり』

 熊野・中辺路町における、山里の暮らしが淡々と綴られている。

 偶然ではあるが、著者が住まわれているという集落に、真夏のある日に、一度訪れたことがある。


 一方杉と呼ばれる巨杉があるという記事をどこかで読んで、それをぜひ見てみたいと思ったのだった。

 国道は谷底の小平坦地を走っていたが、集落は斜面の中ほどに築かれており、こちら秩父地方とよく似た景観だった。
 植生は多少異なっているはずだが、集落の周辺はどこも植林されていて、人の気配がしない集落の雰囲気も含め、その景観は、よく似ているどころか、関東の山間集落とほとんど変わるところはないと感じられたが、こちらではちょっと遭遇することのないスコールのような驟雨には驚いた。

 この本に記されているのは、1980年代の日本の山村の姿である。
 著者は回想を交えつつ山里の現状を語っているので、それ以前のN集落がどのようだったかをも知ることができる。

 ここに書かれているのは、まさに熊野の山里の日常そのものであり、そのかなりの部分は関東の山村で、自分が現在日々体験しつつあることごとである。
 数々の寄合い、祭礼、道普請、きのこ狩り、野辺の送り、山菜とりなど。
 自分では体験しないが、狩猟や炭焼きなどは身近で行われている。

 山里の日常は、久しい過去以来ずっと、多くの日本人の暮らし方そのものだった。
 若者がいなくなった山里では、老人とともにそのような暮らし方が姿を消しつつある。

 そこにあったあまたの技や知恵を失うのは、じつに惜しいことなのだが、目下のところいかんともしがたい。
 食べたり飲んだり、働いたり遊んだり、出会ったり別れたりしながら、人は、身体をすり減らし、自分に与えられた時間を費消していく。

 そこに何が残るものでもないが、そこに生きた人の自恃の念は、あえて見ようとしなくても、見える者には見えてくる。
 山中でふと、朽ちた石垣や炭焼き窯あとや古い石祠などを見かけると、強烈な個性に出会ったような気がして、思わずたじたじとしてしまったりする。

 ひっそりと静まった山里だが、そこで暮らした人間の情念は、そうやすやすと消せるものではない。

(1983,7 新宿書房 2007,9,2 読了)