植物生態学者宮脇昭氏の評伝。
学問の道のきびしさについては理解しているつもりだったが、宮脇氏のそれもまた、すさまじい。
宮脇氏が恩師の生態学者チュクセンから得たことば。
お前はまだ本を読むな。そこに書いてあることは誰かが書いたやつの引き写しかもしれないぞ。お前はまだ人の話を聞くな。誰かが話したことのまた聞きかも知れないぞ。
そうでなければならないのはわかるが、それを実践するのは至難のことだ。
しかしやはり、そうであるべきなのだ。
これまたチュクセンのことば。
いまは、雑草群落や二次林で覆われているけれど、その土地本来の植生は何かを読みとる必要がある。
コナラなどの雑木林は一見、自然度が高いように見えるが、実際には人工林なのである。
雑木林が人工林であるということは、その価値を低めることではない。
柴葉などを発酵させた刈敷肥料を田畑に使用するようになって以来、営々として築かれてきた人為的かつエコロジカルな世界が、雑木林なのである。
ほんらいの植生であるシイ・カシ林より雑木林の方が、動物・昆虫相が豊富なような気がする。
宮脇氏の「潜在自然植生」という考え方を歴史に応用することはできるだろうか。
予定された結論を合理化するための研究は無意味である。
地域の自然環境にマッチしたほんらいの暮らし方とは何かを追究するのは。歴史の一つの目的になる。
重大事から些事まで、過去に生起した無数の史実から時代を象徴する史実を見つけ、意味づけるのが歴史だが、何が歴史の本質かを見抜く目は、「潜在自然植生」を見抜く目に等しく、鍛え抜かれた曇りなき観察眼が必要になるだろう。