鎌田慧『日本列島を往く(1)国境の島々』

 対馬の項目のみ『ドキュメント村おこし』所収。
 著者が歩いた日本国の国境の暮らしルポ。
 暮らしルポというより、現代の民俗調査といった方が適切だ。


 網野善彦氏が東アジアの地図を逆さまに見せて、大きな湖としての日本海をめぐる人々と深くつながっていたことを明らかにされたことによって、日本人が孤立して存在する民族でなどあり得ないことがわかった。
 そのこと自体は学問的な衝撃だったが、「国境」の島では今なお、日本の「周縁」と共生しつつ人の暮らしが営まれている。
 例えば本書に書かれたようなそうした事実に接してみれば、近代国家なるものがあたかも張りぼてのような、ウソっぽい作りごとだということが見えてくる。

 根室にはロシアに情報提供する見返りとして「北方領土」での操業を目こぼしされた人々がいた。
 「北方領土」はロシアに占拠されていることによって「日本」の資本の侵入がブロックされ、自然環境も保たれている一方、日本製の品がどこからか大量に流入している。

 小笠原に定住を始めたのはアメリカなどヨーロッパ人であり、島の公用語はかつて英語だった。
 「日本」本土より、対馬は朝鮮半島と、波照間島や与那国島は台湾と経済的にも人的交流も深かった。

 「日本」はこれら国境の島々を自国の「領土」だと声高に叫び、さまざまな権謀術数を弄して政治的取引をはかるのだが、「日本」の一部であることは、島での暮らしにとってあまり関係がなかったり、むしろ有害だったりする。

 「国境」のこっちにも向こうにも、人の暮らしがある。
 人が暮らす上で国家など、存在する意味はほとんどないのだが、国家は「国境」がなければ存在できない。
 沖縄戦の際に「日本」がなした仕打ちを想起すれば、「国家」と「国境」のそれぞれの存在意義が、よく見えてくる。

 守るべきは、淡々として温かく人間味のある人々が、営々たる立派な暮らしが営んでいる地域そのものなのだ。
 近代成立期にはもう少し手応えのあった国家という存在だが、その役割はもう終わってしまったのかも知れない。
 それとも、別のかたちの国家ならまだ存在意義があるのだろうか。

(ISBN4-00-603001-0 C0136 \900E 2000,1 岩波現代文庫 2007,3,6 読了)