浜田晋『老いを生きる意味』

 若きゴータマ=シッダルタが城門の外で病んだ老人に遭遇し、驚愕したという逸話は、どんな人間にも衝撃的である。
 この逸話は、加齢を経るにつれて、セピア色からカラー写真のようにリアルさを増す。

 今の日本ではおおむね、子どもを一人立ちさせてから親の老いを看取る立場になるまで、さほど多くの時間が与えられていない。
 親を送ればすでに、自分も老いの当事者であることに否応なく気づかされるのである。

 一方、社会はグローバル化に向かって、破滅的な突進をいまだ続けている。
 進むべき道を修正することによって破綻を先延ばしする方が利口なやり方だと思うのだが、目の前の媚薬がよほど魅力的らしく、国の大計を立てる政治家がことごとく、グローバル経済中毒者なのだから、どうしようもない。

 制度に対する抵抗は必要だが、制度が好転することは期待できないから、自分がどのようにソフトランディングするかを模索しつつ、覚悟を決めるしかない。

 この本には、抵抗のさまざまな根拠とともに、ソフトランディングに必要な予備知識も示されている。

 未来が少なくなることは、じつに鬱陶しいことだから、若いときと同じ心の持ちようなど、できるはずがない。
 老いに心の病を併発することが多いということは、想像に難くない。

 (じっとしていても世界を広げることができる読書の趣味はイイものです)

 制度や、家族を含む社会がなしえることの範囲を拡大することが一義的に必要だ。
 高齢者が生きることを負担に感じさせるような世の中は、即座に変えなければならない。
 これから困難な闘いに赴こうというのに、後ろから足蹴にされてはかなわない。

 自分の身の回りだけでなく、自然や社会の行方にも、しっかり目配りをしていこう。
 若者に対し、人間としての礼を失することなく見守り、支える姿勢を崩さないようなしよう。
 自分がどこで役に立てるかを、身の程並みにいつも考えながら、過ごしていこう。

 それでだめなら、仕方がないとあきらめよう。

(ISBN4-00-603034-7 C0136 \900E 2001,4 岩波現代文庫 2007,2,3 読了)