木村迪夫『減反騒動記』

 安全保障の基本は食糧の確保だろう。
 戦後の保守政権が安全保障を真剣に考えてるのか疑わしいのは、食糧政策が恐ろしく杜撰だからだ。

 下筌ダム阻止のため闘った室原知幸氏は、行政は法・理・情に沿わねばならないと述べている。

 片や数十年も前に策定された食糧増産計画に基づく干拓やダム建設が進められる一方で、減反を強制するという農政は、なんら一貫性がない。
 政治の裏付けとなる法に一貫性がないのだから、どうしようもない。

 国家の根幹である食糧確保をどうするかという戦略もない政治がまかり通ること自体が、ちょっと考えればあり得ない話なのだが、それが許されているところに、国家的なボケがある。
 食べ物が確保できるかどうかわからないのに、ミサイル防衛を論じるなど、この国の危機管理は、根本的にボケているというしかない。
 減反は、理とは別のところから発想されているのだから、そうなるも当然だが、そんなことでは国は危うい。

 日本人が米だけ作ってきたというのは誤解だが、全体として米が基幹的な作物だったことは事実だ。
 少なくとも近世〜近代に、日本人が懸命に米を作ろうとしてきたことは否定できない。
 無数のそうした営為が、急峻な列島を水の島に改造するほどの結実を見たのが、戦後の農山村だっただろう。

 この努力は、日本人の心性にも容易ならざる思いを刻印した。
 それを捨てよというのは、日本人のアイデンティティを捨てよというに等しい。
 この美しい日本を、どうしようというのか。

 本書には、理にも情にも反する減反の現場が描かれている。
 米を作るのは、みんなに迷惑をかけることだから、従わないものには、集落全体で罰金を科すというようなやりとりがある。
 個の未確立などと、利いた風なことを言ってはいけない。
 米作りは、個人ではできない農業なのだ。

 本書には、本サイトで何度か取り上げた本田靖春氏の「カリフォルニア米輸入論」が批判されている。
 米に関する本田氏の議論は、無知と偏見をさらしたクズ文か、スポンサーの求めに応じて書き散らした売文であるとしか思えない。
 それが「拗ね者」だというなら、情けないことだ。

 理や情に基づく変革が農山村から起きないと、この国はますます泥沼に陥っていくだろう。

(ISBN4-7952-2419-6 C0036 \1600E 1985,7 樹心社 刊 2007,2,1 読了)