筑紫哲也『スローライフ』

 スローライフは、社会の永続可能性を一義的に考える暮らし方と考えています。
 それがよいことかよくないことかは、私にとっては自明のことです。


 スローライフの唱道者を自認する著者が、その意味についてさまざまな角度から実例をもとに、問題を提起しています。

 ところで冷戦崩壊以降、社会の問題点を分析する際、資本主義の本質的欠陥に論及されることが少なくなったように感じます。
 スローライフの対極(ファストライフ?)は、資本主義経済そのものであるにもかかわらず。

 封建社会は、本質的に社会の永続可能性に第一義的価値をおく社会でした。
 支配者にとって、社会や経済が変化しないことが、自らの支配の永続を保障したから。

 封建社会末期に、永遠の自己完結を理想とした経済にほころびが生じ、才覚を駆使することによって利を得ることが可能になったのがよかったのかよくなかったのか。
 それが資本主義の勃興期でした。

 利を求めることは理を求めることでもありましたが、資本主義は科学と双生児の関係にありましたから、一方の発達は一方の発達を促しました。
 利を求めるのは個人ですから、人は個人であるという思想も確立していきました。
 それがすなわち近代だったわけです。

 反近代の考えに与し得ないのは、それが個人を否定する思想だからです。

 山など歩いてみればよくわかりますが、人と蟻にたいしたちがいなど、存在しません。
 それらは同じく歩くものであり、食するものであり、風雨の前で無力なものです。
 わたしが敢えて山歩きをする意味を求めるなら、人の卑小さをこれでもかこれでもかと痛感するため、といっていいと思います。

 蟻のちがいは、人には個人としての意識があるという点のみでしょう。
 それこそが人の人たるゆえんだし、近代がもたらした唯一最良のものだといえるでしょう。

 自己意識を持ちつつ、利や合理性にとらわれずに暮らすことが可能か。
 破滅に向かってひた走ろうというのでなければ、可も不可もなく、他の選択肢はないと思いますが。

(ISBN4-00-431010-5 C0236 \700E 2006,5 岩波新書 2006,8,28 読了)