大西暢夫『僕の村の宝物』

 若い写真家が徳山村でしばらく生活をした、ちょっと珍しい体験を書き記した程度の本かと思って、気らくに読み始めました。

 サブタイトルに「ダムに沈む徳山村 山村生活記」とあります。

 徳山村は、日本最大の徳山ダム建設が予定されている村で、すでに廃村になり、地図からも名前の消えた村ですが、ダムや川に関連する本に、ときどき名前がでてきますので、村名には聞き覚えがありました。

 この本を読んで心に残るのは、登場するご老人たちの、何げなく意味深い言葉の数々です。

「山仕事は忙しくて考えとるひまがないってことと、畑に育っとる大根や人参やじゃがいもとかいろいろな野菜の顔が、変な顔しとったり、太っとったり、やせとったり、見とって笑ってまうんや。それが楽しくてなァ」 「これは、熊も見つけとらんな。早いもん勝ちじゃで。でも、全部拾うなよ。街の人間だったら、ひろってまうやろうけど、徳山の衆はそんなことせん。人間はなんでも欲張りすぎじゃ。食べられる分だけでええんじゃ。それ以上、採ってもくさってしまうやろ。ちょっとは動物たちに置いとかないかん」

「皆、山の生活は大変やていうけど、わしら街に家が建って、街の暮らしも大変やっていうことがわかってなァ。全然意味の違うものやなァ。山の仕事って、自分の足で移動するしかないけど、歩いて行ける範囲でできとったんや」

「街はなァ、見えとっても遠く感じるんじゃ。道中、あまりおもしろくないしなァ。山やったら、歩いとると、いろいろ出会うじゃろ。そんなの見とったら、すぐに目的地に着いてまうんや」

 最近、ストンと納得のできる言葉に出会うことが、少なくなってきていただけに、これほどに正しい言葉に出会えたことは、うれしいことでした。
 ライターの感受性にも、共感します。
 ダムができることによって失われるものは、自然や集落や人間の暮らしだけではありません。

 その地で暮らしてきた人びとが育んできた文化や、生活の知恵といったものも、水没し、消滅してしまいます。
 それらの文化や知恵を引き継ぐことは、できないでしょう。
 なぜなら、それらは、その地で生きる上で、かけがえのないものだったはずだから。
 街で暮らすとなると、必ずしも必要のないものばかりだから。

 しかし、それらの文化や知恵こそ、なんたら「評論家」が吹聴するその場限りの、得体の知れない雑知識とは無縁の、ほんとうの真理にほかなりません。
 ダムによって日本は、真理をも失っていくのだなぁ、と思いました。

(ISBN4-7958-2652-8 C0095 \1400E 1998,2 情報センター出版局刊 2001,11,1 読了)