鎌田慧『ドキュメント村おこし』

 世界は、経済的・軍事的・政治的・精神的なグローバル化の流れの中にあるようです。
 その辺境に位置するイスラム世界が、アメリカ中心のグローバル化に対して、激しく異議申し立てをしている、というのが、世界の現実と、思われます。

 そういう中で、日本の政府は、たいへん激しくアメリカに共感しようとしているように、見えます。
 先日、仕事で東京に出かけましたが、東京にも、世界貿易センタービルという建物が、あるのですね。
 これなども、ニューヨークに激しく共感する、日本の姿勢をアピールしようとしているネーミングなのでしょう。

 わたしは、日本は、グローバル化の先兵になるのではなく、寛容と共生の道を、ねばり強く探るべきだと思いますが、どうも、そういう方向に進むようすは、ありません。

 日本国内もまた、東京中心・多数派中心・効率主義中心のグローバル化に、洗われています。
 日本の辺境に位置しているのは、農山漁村です。
 古くは、高度経済成長、その後、列島改造論を経て、リゾートバブル、そして最近はIT革命の騒ぎがありました。
 この間、一貫して後景に追いやられてきたのは、日本の国土に根ざし、日本人の暮らしを長きにわたって支えてきた、農林漁業でした。

 生態系破壊が指摘され、森林や野生生物の生存が危機的状況になったのと同じく、従来の日本人の暮らしや価値観が、危機に瀕してしまったのです。
 バブル期に、開発をめぐる問題が起きると、「自然と人間とどちらが大切か」というような言い方がされ、自然を守れというのは、都市住民のエゴであるという、論理のすり替えが、至るところでなされました。
 「人間を守れ」といいつつ、村の暮らしは守られず、都市の土建資本にアブク銭が流れたのでした(そのおこぼれにあずかった人はいるが)。

 生態系が破壊されると、まわり回って、その土地で暮らす人間すべてにツケが回って来るという筋の通った理屈より、辺境の住民も都市と同じように華やかな消費生活を送るために、自然を切り売りしなければならないという、直接的でわかりやすい経済原理が、受け入れられたのです。

 バブルの崩壊により、とりあえず乱開発に歯止めがかかっていますが、この先どうなるかは、まったく予断を許しません。

 わたしは、地方の住民が、地域に根ざした暮らしや歴史に誇りを持ち、一見華やかに見える消費文明を相対化する視点を持つことが、まず第一に必要であり、次に、地方が、都市にへつらうことなく一定程度の収入が得られる産業構造を持つことが必要だと考えています。
 徳島県木頭村などは、その両者を、果敢に実践されています。
 その途は、まだ模索中ではありますが、ぜひ成功していただきたいと思います。

 この本は、バブルの絶頂期に取材がなされた「村おこし」のルポ集です。
 この時期に、これだけしっかりした取材がなされていたこと自体に、驚いてしまいます。
 「しっかりした」とは、一見地域に根ざしたふうに見えて、リゾート資本の食いものになっているような開発に惑わされているようすが全くない取材という意味です。

 それにしても、構造不況が久しく続いた現在なお、これらの村々が、意気軒昂としているかどうか。
 そのあたりが、気になるところです。

(ISBN4-480-85599-8 C0036 P1650E 1991,10 筑摩書房刊 2001,10,19 読了)