田中伸尚『日の丸・君が代の戦後史』

 われわれの国は、こんなことをしていていいものだろうか、と、しばしば思います。
 学校行事に「日の丸」「君が代」があるかどうかなど、大きな問題ではないではありませんか。

 必ずなくてはいけないものではないならば、必要ない、と言っていいと思います。

 学校には、もっと必要なものが、あるはずです。
 それは、子どもたちが伸び伸びと育っていけるような、精神的に自由な世界でしょう。

 われわれは、現実の子どもたちを、もっとしっかりと、受け止めてあげなくてはいけないのです。
 教育の要諦は、そこにあると思うのですが、教育とは従わせることであるという風潮が、しだいに強くなりつつあるような気がします。
 これは、本来あるべき姿からの逆行だし、いずれ破綻するでしょう。

 高校教育の現場を長らく見てきたものとして、過去を振り返ってみると、1970年前後の「高校紛争」の時代が、ひとつの転換点だったと思います。
 あのとき、高校生のかなりの部分は、自分たちをめぐる現実を、自分の頭で解釈しようとしていました。
 また、解釈するだけでなく、自分たちおよび自分たちをめぐる現実に、積極的にかかわり、変革したいという気持ちを持っていました。

 それに対し、教育行政および教師は、高校生のエネルギーをそぐことに、もっぱら力を入れてきました。
 結果的に、70年代初頭には、早くも、「現実は変わらない」という無力感が、支配するようになっていました。 1980年代には、高校生の多くは、自ら考え、動くことをしなくなってしまいました。
 そんな中でも、60年代・70年代の風を吸って育ってきた教師たちを中心に、指示されて動くのではなく、集団的な育ち合いを作っていく取り組みが、活発におこなわれていました。

 1990年代は、教育への国家統制が、常軌を逸する形で、進行しました。
 教師の、教育者としての良心そのものが、存在を許されないものとして、脅迫を伴った攻撃の対象とされました。

 2000年代の、これからの教師は、自分の身を守ることで、精一杯になるのではないかと思われます。
 子どもたちのおかれている現実は、きわめて多様ですから、一人一人に応じて、いろんな対応をしてやらねばならないのです。
 しかし、彼らの現実を受け止めることより、とりあえず従わせることが、「教育」の課題となってくるようになれば、子どもたちの育ちを、真剣に考えれば考えるほど、非能率的だと、誹られることになってしまうでしょう。

 文部官僚(地方自治体の教育官僚を含む)や政治家には、教育がどのようにして行われるものかについて、もっと深い理解をしていただきたいものです。

 指示(もしくは命令)をする。
 子どもはそれに従う。
 従わないものは、矯正の対象とし、矯正できなければ、排除し、さらに排撃の対象とする。
 こんな教育(および教育行政)をやっていては、ますます、社会の分裂を招くだけです。

 「日の丸」「君が代」は、非教育的な「教育」のテコとしての役割を果たしてきました。
 今後、教育現場のみならず、広く社会一般において、精神の自由をめぐる軋轢が、表面化することでしょう。
 偏狭なナショナリズムは、健全なナショナリズムを圧迫してしまいます。
 わたしはあくまで、「日の丸」「君が代」の強制には、反対です。

(ISBN4-00-430650-7 C0230 \700E 2000,1 岩波新書 2001,1,16 読了)