宮本常一『山に生きる人びと』

 発刊されてからずいぶん長く読まれている本です。
 現在の日本では、山村や農村で生活することは、人にとって、ハンディのひとつと考えられていると思われます。

 まず第一に、仕事がないこと。
 仕事がないということは、人並みの暮らしを望めないということです。
 これだけは言えるのですが、山村・農村に、昔から仕事がなかったわけでは、ありません。
 日本人の生活様式の変化や、対外的要因(農林産物の輸入増加)が、山村・農村をさびれさせていたのです。

 仕事がないから、若い人は、仕事のある町場へ、出ていきがちになります。
 農山村で、都会並みの暮らしをしていくには、環境にフィットした、生活密着型の仕事がなくなる一方、恵まれた自然環境(空気や水や景観)を切り売りすること自体を目的とした産業(建設業)に頼らざるを得なくなります。

 こうして、公共事業の名の下、公費が農山村(漁村もですが)に流し込まれ、そのことと引き替えに、官僚や政権政党が潤う、といった構図が、20世紀後半の日本だったのでした。

 なぜ仕事がないかというと、交通が不便だからの一言に尽きます。
 産業の基本原理を自由競争におく限り、低コスト化とスピード化は、至上命令となります。
 しかし、どんなに道路網を整備しところで、地理的ハンディが解消されるわけは、ありません。

 ですからわたしは、現在のような、経済力の優劣による序列を前提としたグローバリズムには、強い拒否感があります。
 現実のまつりごとが、現実をふまえておこなわれるのは、やむを得ない面がありますが、その土台には、哲学がなければならないでしょう。

 日本は、日本の風土や自然に根ざした世の中づくりをめざすべきです。
 それをゆがめたのは、「日本列島改造論」であったような気もするし、明治以降の近代化のあり方そのものに、問題が内包されていたとも、思えます。

 それではいま一度、山村はかつて、どのような機能を持ち、どのような暮らしが織りなされていたのかを知り、日本の自然や風土の中で生きるとはどういうことか、考え直してみる必要があると思ったわけです。

 山の民は、生活の記録を残す必要がありませんから、文献に残る記録は、とても少ないのが現実です。 したがって、数少ない文献と、伝承と、民俗慣行や行事の中から、それを探り出す以外にはないと思います。

 そんな問題意識で、この本を手に取りました。

 この本には、狩人、サンカ、木地師、杣、落人など、かつて広範に山暮らしをしていた人々の、由来について興味深い考察がされています。

 わたしの住む埼玉県秩父地方に即して考えると、サンカや木地師というような人々が、少なくとも近世以来、山中にあまた暮らしていたらしい。
 これらの人々の生活の糧は、原生林の木竹ですから、里では逆に、生活ができなかったでしょう。
 人間の暮らしに、木のうつわやざるなどの道具は不可欠でしたから、これらの人々が、近世以前から存在した可能性は、かなり高いと思われます。
 大正・昭和になってすら、奥秩父の山には、至るところに木地師の小屋掛けがなされ、あまたの人々が、臼や木鉢製作に従事していました。

 奥秩父の原生林は、同時に、鉱山師の森でもありました。
 入川上流に、金山沢という名の支流があります。
 ここは武田の時代に、「金山沢千軒」と呼ばれるほどに、鉱山師たちが雲集したとの言い伝えがあるところです。
 この本には、「千軒」とは、砂鉄を掘ったところだと書いてあります。

 そして、奥秩父は、野生動物の豊かなところです。
 人の集まるところといえば、三峰神社くらいでしたから、渓漁で生活するのは困難だったかもしれませんが、猟は大きな収入源であったと考えられます。
 さらに、甲州(雁坂峠ほか)、信州(十文字峠ほか)、上州(雁掛峠ほか)を利用した、山中交通の要所でもあり、馬や人の背を使った運送業が成立する条件もありました。

 秩父山村には、もともと田のない集落が、数多く成立しています。
 これらのところに住み着いた人々は、もともと、農業を目的としていなかったのではないかと思います。

 近世社会が成立した時点において、主として農業以外のなりわいで生活を立てていたにせよ、幕藩制国家は、石高によってしか、生産力を計測できなかったのですから、これらの集落は、帳簿上は極貧生活と見えたはずです(したがって公租も低廉であった)が、内実は、必ずしもそうでなかった可能性があります。

 まずは、このように多彩な山の民の姿が見えてきたところが、この本の最大の収穫でした。

(ISBN4-624-22102-8 C0339 \2060E 1964,1 未来社刊 2000,12,31 読了)