鈴野藤夫『魚名文化圏 イワナ編』

 わたしの住む、埼玉県秩父地方には、たいへん美しい、イワナという魚が、生息しています。
 この魚は、夏の最高水温が13〜15度という冷水域にしか、住めない魚です。


 ですから、イワナの生息しているところは、秩父地方でも標高の高い、大滝村という村がほとんどです。

 わたしは、渓流釣りを趣味としていますから、イワナには、愛着と興味を持っています。
 少し釣りをする人には、わかるのですが、イワナは水系ごとの地方変異が、たいへん大きな魚です。
 私は、秩父の渓には、秩父のイワナがいちぱん似合う、と思います。

 ところが、最近、どこのものだかわからないイワナを、こっそりと渓に放流する人が、いるようなのです。
 これは、釣ってみればすぐに、わかります。
 秩父の渓に似合わない、おかしなイワナが釣れることは、わたしのような一地方の釣り人にとっては、自分のアイデンティティを否定されるのと同じくらい、ひどいショックなのです。
 最近、小さなイワナまでごっそり持ち帰る釣り人が出てきたり、釣り人の数が渓のキャパシティをはるかに越えてきている現状を見ると、胸が痛みます。

 なんとかしなくてはいけない、と思い、志を同じくする友人たちと、秩父イワナの保護区を作る運動を始めたところです。

 わたしは、水系ごとにイワナはみんなちがっていると思います。
 イワナは、第4間氷期が訪れた約1万年前以来、人為をのぞけば、他の川のイワナと交わることなく、水系ごとに独自の形態を持つようになってきたからです。

 渓流の水は、水源の森によって作られています。
 地質や気候が異なれば、森林植生や水質が異なってきます。
 イワナは、西日本に生息していたものたちから順次、陸封されていきましたから、陸封歴の差もありますが、彼らの食餌たる水生・陸生昆虫相は、森林植生によって異なってきますから、極論するなら、水系ごとに微妙に異なる水質に生息し、水生ごとに微妙に異なる食餌を摂って現在に至っているから、あのような水系ごとの微妙な形態差を生じさせたのでしょう。

 秩父の渓には秩父イワナが似合う、というわたしの感覚は、まちがっていないと思います。

 地方によってイワナの呼び名が異なり、イワナをめぐる文化が異なっていると主張するこの本に接して、驚嘆、共感の思いを禁じ得ませんでした。
 著者の博学にも、驚いてしまいますが、在来イワナを守りたいという、ささやかな運動を行っているものには、何よりの励ましとなる一冊でした。

(ISBN4-487-79546-X C0039 \2800E 2000,5 東京書籍刊 2000,12,27 読了)